経済の中心地、八重洲・日本橋・京橋エリアの源流をつくったのは、江戸の発展を支えたクリエイティビティ溢れる町民たちだった。現在の町民たちが何を考え、どこへ向かっているのか、さまざまな領域で活躍するキーパーソンへのインタビュー。
“Y”ou “N”ever “K”now till you try
\今回話を聞いたのは/
CREATIVE MUSEUM TOKYO 館長
中山三善さん
早稲田大学第二文学部美術専攻課程卒業。83年、ブリヂストン美術館学芸員に就任。88年から95年、東京ステーションギャラリー主任学芸員。その後、足利市立美術館、植田正治写真美術館、浜田市世界こども美術館など、全国各地の美術館の設立や運営を担当。2002年、森ビルに入社し、六本木ヒルズの森美術館や展望台の開業に携わる。16年、六本木にスヌーピーミュージアムを設立し館長に就任。24年11月、CREATIVE MUSEUM TOKYOの館長に就任。
▶︎「私の趣味はオーディオです。この館長室にも、ちょっとマニアックなスピーカーを入れています」
東京メトロ銀座線の京橋駅から歩いて3分。中央通り沿いにそびえる超高層複合ビル「TODA BUILDING」は、2024年11月に開業した。平日の昼間は多くのビジネスパーソンたちが行き交うが、このビルに入り、エスカレーターを上がっていくと景色は一変する。
カジュアルなファッションに身を包んだ若い男女が、予約した時間に展覧会に入るために大勢、集まっていた。取材した日に開催されていたのは「堀越耕平『僕のヒーローアカデミア』原画展」。チケットは平日にもかかわらず、予約で完売だという。列を作るための番号が床に書かれており、人の多さの割には整然とした空気が漂っていた。
こうした光景は週末も同じだ。開館以来、開催した展覧会が立て続けに話題となり、多くの人たち、とりわけ若者たちを惹きつけているのが、このビルの6階に入っている「CREATIVE MUSEUM TOKYO」(以下、CMT)だ。
写真提供:CREATIVE MUSEUM TOKYO
マンガやアニメなどのポップカルチャー、現代アート、デザインなど幅広いジャンルを扱い、作品や表現者、そこに至るプロセスを大空間で体感できる施設、がコンセプトになっている。
オフィスビルでありながら、芸術文化の拠点として開発されたのが「TODA BUILDING」。ビルのエントランスロビーをはじめ、共用スペースには新進気鋭のアーティストの作品が展示され、3階には「GALLERY COMPLEX」として現代美術を扱う4つのギャラリーが集まるなど、アートに触れる機会が提供されているこのビルだが、中でもひときわ注目を集めているのが、CMTなのである。
このCMTの企画から携わり、現在館長を務めるのが、中山三善さんだ。
「新しいことをやりたかったんですよ。それともう一つ、ちゃんと収益が確保されること。その礎がないと、うまく行かないんです」
アートの世界で、華麗な経歴を培ってきた人物だ。ブリヂストン美術館(現アーティゾン美術館)の学芸員となり、東京ステーションギャラリーを経て独立。六本木ヒルズでは、話題の展覧会を次々手掛けた。
「学芸員になる人は、大学の修士課程を出ていて、自分の研究分野を極めている方が多いのですが、私は大学院には行っていないので、業界的には低学歴です。ただ、新しい企画を提案して、それを実現して行くことが好きなんです。私のような、良くも悪くも冒険的なタイプの学芸員は、他にはあんまりいないんじゃないかと思います」
最初から順風満帆だったわけではない。大学を卒業して最初に就職したのは、日本橋にあった小さな画廊だった。学芸員になろうなど、考えてもいなかったという。
「学芸員の募集というのはそもそもほとんど無いんです。修士課程で勉強しながら、運が良ければ地方のどこかの美術館に入れるかも、という感じでしたね」
運命を変えたのは、この小さな画廊での経験だ。当時はバブル前夜。美術品を輸入し、販売を手掛けていた画廊だったが、数千万円、億円単位の取引が当たり前に行われていた。フランスの彫刻家、マイヨールの作品を日本中に設置する仕事を担当したこともあった。社長とクライアントの商談にも同席し、アートビジネスの世界を間近で見る機会も得た。
「しかも社長は年の半分はパリにいて、僕は日本での実働部隊。作品を運んだり、新聞社と一緒に展覧会を手伝ったり。こうした実務の経験を積んでいたら、それが評価されたようで、ブリヂストン美術館から学芸員として声がかかったんです」
都内の名門美術館にスカウトされるなど、まさかの出来事だった。館に提出するための推薦状を大学時代の恩師にもらいに行くと、「もし採用されなくても気を落とさないようにね」とアドバイスされた。「先生、もう採用は決まっているんです」と言っても信じてもらえなかった。
こうして1983年、ブリヂストン美術館(現在のアーティゾン美術館)の学芸員になる。ちなみにアーティゾン美術館は、偶然にもCMTのすぐ隣のビルにある。
ブリヂストン美術館は、モネやルノワール、セザンヌ、ピカソなど、19世紀から20世紀の西洋絵画、日本の近代洋画などのコレクションで知られ、世界的な名画も多数所蔵している。
「今でもアーティゾン美術館に行って絵を観ていると、息子や娘を見るような気持ちになるんです。どうしてかというと、手塩にかけてこれらの作品の保存や修復に携わったからです」
ブリヂストン美術館での学芸員としての仕事は多岐にわたった。展覧会の準備や図録の制作がメインではあるが、カメラマンと一緒に作品の写真撮影をする、毎年100人程の学芸員実習を担当する、さらには国内外から所蔵作品を貸してほしいという借用依頼が頻繁に入るため、その対応など。
その中でも特に力を入れたのが作品の保存修復だった。当時の日本の美術館では、この分野の研究が、かなり遅れていた。作品に日々触れる中で、その危うさに気づいたのだ。そこで、国立西洋美術館の専門家に教えを請い、修復家との共同作業を進めた。
また、今でも覚えている重要な取り組みが、絵画を保護するガラス板を、アクリル板に変えていったことだ。ガラスは割れると危ない。重さもある。しかし、当時の日本で普及していた普通のアクリル板は絵画の保護に適さなかった。
「アクリル板を徹底的に調べたんです。アクリルは、正式にはメタクリル樹脂というのですが、軽くて丈夫なので、戦闘機の風防として開発が進みました」
調べていくうちに、日本にも有力なメーカーがあることがわかった。そのうちの1社では、普通のアクリル板ではなく、静電気を起こさないアクリル板を作っていた。それを採用する。
「アクリル板は水分を吸収すると少し伸びるので、ぴったりのサイズに切ってはダメ。あとで伸びてもいいように、少し『遊び』がある方がいいなど、研究を進めるうちに色々なことがわかってきて。それを学芸員研修会で発表したこともありました」
ところが中山さん、こんな重要な仕事に別れを告げてしまうのである。東京駅の赤煉瓦駅舎に開設された「東京ステーションギャラリー」に転じるのだ。
「ちょうど国鉄が民営化されてJRになったばかりのころで、担当の人がブリヂストン美術館に相談に見えたんです。東京駅から一番近い民間の美術館だから、と」
聞けば、東京駅の赤煉瓦駅舎内に美術品の展示施設をつくりたいという。ゼロから美術館を立ち上げる仕事。もしやこれは大胆なことができるのではないか、と感じた。JRが所蔵する美術品を集めたこけら落としの展覧会を開催したあと、次なる企画が求められた。そこで出したのが、「ピカソ展」だった。
「ピカソは視覚芸術の革命者ですからね。改革をしようとしているJRにピッタリではないか、と提案しました」
もちろんハードルの高さはわかっていた。費用もかかる。ところが、中山さんが書いたA4一枚の企画は通ってしまった。
「最初、担当者に持っていくと、自分では決められないから課長のところに行こうと言われ、課長のところに行ったら、私では決められないから部長のところに行こうと言われ。部長のところに行ってその場で採用されました(笑)」
画廊勤務時代に交流のあったスイスの著名な画商を通じ、ピカソの孫娘マリーナ・ピカソが所有する油絵やドローイング44点を展示した「キュビスムのピカソ展」は大きな話題となった。中山さん自身は、この「ピカソ展」のタイミングでブリヂストン美術館から東京ステーションギャラリー、つまりJRへと移籍。
「ピカソ展」以後、中山さんのもとには、美術館の設立や企画についてのさまざまな相談が舞い込むようになった。そこで、東京ステーションギャラリーの学芸員を務めるかたわら、自分の会社を設立し、数多くの美術館の設立や運営に携わるようになる。
アート感覚に加え、持ち前の企画力やビジネス感覚がここで大きく花開いた。そして声がかかったのが六本木ヒルズの「森美術館」だった。まさに、ビジネスセンスのある学芸員が求められていた。中山さんは森ビル株式会社に入社、大きな成果を出す。
2003年、六本木ヒルズにオープンした森美術館では、事務方と学芸方の両方を繋ぐ役割を担った。森タワーの49階から53階に設けられた複合文化施設「森アーツセンター」は美術館や展望台、会員制の図書館やクラブなどからなる。開業時にもっとも話題となったのは52階に位置する展望台「東京シティビュー」で、初年度は年間200万人以上が訪れたという。しかし、これがずっと続くとは、中山さんには思えなかったのだ。
「開業2年目も3年目も、同じように展望台に年間200万人が訪れるとは思えなかった。眺望だけではない仕掛けが必要だと思ったんです」
企画書を作ったら、ある日、森稔社長から直々に呼び出しが掛かった。こうして美術館担当でありながら展望台の運営も担当することになった。そして1年後には、2層ある美術館の1層、52階の「森アーツセンターギャラリー」の運営を任されることになる。
「いろいろやりましたね。サッカーのワールドカップの本物の優勝トロフィーを展示した『FIFA100周年写真展』、前の晩から行列が六本木ヒルズを取り巻いた『ぺ・ヨンジュン写真展』、ビル・ゲイツ夫妻が所蔵するレオナルド・ダ・ヴィンチの手稿を展示した『レスター手稿展』、展望台を貸切にして約3000人を集めた映画『スパイダーマン』のワールドプレミア、51万人が来館した『ONE PIECE展』、42万人が来場した『ハリーポッター展』……」
入社から4年後の2006年には森ビルの取締役に就任。だが2012年、森稔社長が亡くなると自ら退任を申し出る。その後4年間は、業務委託で森アーツセンターギャラリーのディレクターを務めた。
そんなある日、50階のオフィスからふと下を眺めると、ぽっかりと空いていた土地があった。新たな再開発のために取得されていた用地。3000平米ほどの敷地で、しかも再開発が始まる2年半後までの暫定利用の土地だったが、何かができるのでは、と考えた。
「最初は1年に5本くらいの展覧会をやったらいいのでは、と思ったんですが、2年半しかない。それなら、何かひとつの方が効率がいい。そこで浮かんだのが2013年に森アーツセンターギャラリーで開催した『スヌーピー展』でした。スヌーピーなら、グッズも売れると思ったんです」
またもやA4一枚の企画書を書き、スヌーピー(コミックの原題は『ピーナッツ』)の版権管理をしているソニー・クリエイティブプロダクツに提案した。
「当時の社長と専務に敷地が見下ろせる部屋で説明したのですが、その場で即決でした。普通は社に戻って協議します、とかになるでしょう。これには驚きましたね」
こうして2016年に生まれたのが、「スヌーピーミュージアム」だ。中山さんは館長に就任。これが2年半で136万人が来場する大ヒットになる。
「それならと移転先を探し、スヌーピーミュージアムは2019年に南町田グランベリーパークに移りましたが、このときに知ったのが、TODA BUILDINGだったんです。戸田建設が本社ビルの建て替え計画の中で、芸術文化施設の設置を検討している、と」
戸田建設株式会社は、TODABUILDINGに隣接するミュージアムタワー京橋の事業者・株式会社永坂産業と、この街区を再編し、芸術文化の拠点とする都市計画提案を東京都にしていた。これが認められれば、さらに街は賑わうだろうと思った。そこで、ソニー・クリエイティブプロダクツと一緒に同ビル6Fの情報発信施設のコンペに参加することに。ソニーミュージックグループの持つコンテンツも使え、ブランド力も大きい。まさに最強のタッグとなった。
「ぐるっと回って、また京橋に戻ってきたんです。最初に勤めた画廊は日本橋でしたし、実は一時、自分の事務所も京橋にあったので、このエリアには縁があるんです。中央通りの一本裏にある通称・骨董通りには、老舗の古美術商や昔からの画廊がまだまだ残っていますし、そこに再開発で新しい施設ができると、変化が起きてさらに刺激的ですよね。TODA BUILDINGとアーティゾン美術館との間に歩行者空間があるんですが、もともと区道だったものが区画整理事業で歩行者空間になったんです。ここで新しいアートのお祭りをやってみたいですね」
オフィスから人が消える週末も、今や若い人たちで賑わいを見せている。それもそのはず、CMTはこれだけの実績を持った人がつくった施設なのだ。これまで京橋や日本橋に来たことがない人も、街を訪れるきっかけになっているのだろう。この先、どんなものが生まれてくるのか、内外からの注目がますます高まっている。
撮影/西田香織
CREATIVE MUSEUM TOKYO
上阪 徹
ブックライター
1966年、兵庫県生まれ。早稲田大学商学部卒業後、ワールド、リクルートグループなどを経て、1994年にフリーランスとして独立。経営、金融、ベンチャー、就職などをテーマに、雑誌や書籍、ウェブメディアなどで幅広く執筆を手がける。近著に『安いニッポンからワーホリ!』(東洋経済新報社)、『ブランディングという力』(プレジデント社)など。