日本の玄関口・東京駅を有する八重洲・日本橋・京橋エリアは、多くの人を受け入れるまちであるとともに、地縁的な結びつきも強いまち。注目の若手エッセイスト・絶対に終電を逃さない女が、このまちや人々を観察していく連載。
「地域広報誌って誰が読んでるんだろうね」と何気なく放たれた友人の言葉に、「私は全部読んでるよ」と食い気味に返したことがある。地域広報誌のみならず、近所の公共掲示板などもこまめにチェックし、気になる地域イベントがあれば足を運ぶようにしている。当然、神社の祭りも例外ではない。
地元の祭りは会いたくない同級生たちとの遭遇不可避の憂鬱なイベントだったが、私にとって地縁のない東京の祭りは、住んでいる地域でありながら旅行先で立ち寄った祭りのような、少し不思議な気分に浸ることができるイベントである。
さて今回取材することになった日枝神社の山王祭は、江戸三大祭りの一つとされる大規模な祭りである。私が普段行くのはもっぱら住宅街にあるような小規模な神社の小規模な祭りであり、山王祭のような大都会の大きな祭りにはまるで行ったことがない。
6月9日、東京スクエアガーデン前から日本橋までの中央通りは「山王祭下町連合渡御」のため、正午から全面交通規制がかかる。町会ごとの16基の神輿がずらっと並んだ通りは、半纏をきた町会の人々と、見物の人々で賑わっている。
見物と言っても、山王祭目当てで来た人と、たまたま通りかかって見ているだけの人と、どちらが多いのだろうか。
仕事のために来た人、待ち合わせに急ぐ人、買い物に来た人……。田舎の祭りは祭り目当てで来た人ばかりで、町全体が祭り一色になるイメージだが、やはりこれだけの都会でこれだけの規模になると、様々な目的でこのエリアに来た人々が混在しているようだ。
下町連合の偉い人が、開会の挨拶を始める。「本日は絶好の曇り空で……」スピーカーか何かの不具合により、途切れ途切れになっていて聞き取れない。何を言っているかわからないが拍手をする。運動会の開会式の空気に似ていると思った。
茅場町二・三丁目、茅場町一丁目、兜町、八丁堀四丁目東……と順にそれぞれの高張提灯と神輿が、いくつもの高層ビルがそびえ立つ中央通りを何千人の人たちとともにゆっくりと行進していく。
神輿を担ぐ町会の人々は住民だけではない。例えば檜物町(八重洲一丁目とその周辺)の町会に所属する住民は70人程度とのこと。あとはこの地域に社屋を持つ企業の社員や飲食店を経営する人たちが大部分を占めているという。他の町会も同様に、企業のロゴが入った半纏を着た社員たちの姿が目立つ。
下ろしたてに近いパリッとした半纏を着た若者に対し、中年から年配の方々の少し色褪せてくたっとした半纏は、いかにも江戸っ子風情を醸している。
そんな様々な形でこの土地に縁を持った人々が担ぐ神輿は、中央通りを進み、日本橋の橋の真ん中でUターンをする。
「神田明神の氏子との小競り合いがまた面白いんだよ」
2日前に檜物町の御仮屋(祭りの期間に神輿を飾るための仮の建物)にお邪魔させていただいた際、長老と呼ばれる府川さんは、そう教えてくれた。
日本橋川に掛かる日本橋の真ん中が、山王祭の日枝神社と神田祭の神田明神の氏子区域の境界にあたるのだ。その橋の真ん中で、山王祭と神田祭それぞれの神輿渡御のUターンの際にそれぞれの氏子が待ち構えているのだが、昔は氏子同士が本気の喧嘩をしていた、という逸話もあるらしい。
それが今も一番の見どころだと聞き、だいぶ余裕を持って先回りして日本橋に着いたのだが、すでに人だかりができていた。神田明神の氏子町会である「室町一丁目」「本町一丁目」と書かれた高張提灯を持った人たちが、境界線を強調するように橋の上に並んで神輿が来るのを待ち構えている。観衆もたくさんいる。この人たちは通りすがりなんかじゃない。まだ神輿が来る気配すらない時間から場所を確保しているのだから、ガチ勢である。
徐々に人が増え、少し涼しかったはずの川沿いが、むわっとした熱気に満ちていく。
「昔この辺りは地下水がたくさん出てたから、本当に涼しかったんだよ。銀座線の脇にも水路が流れてた」
そう懐かしんで教えてくれた府川さんの横顔が、どことなく川端康成に似ていたことを思い出す。祭りを見に各地からやってきた観衆は誰も知らない、ここを地元とし、何十年も暮らしてきた人だけが知っている景色だろう。
檜物町の御仮屋の様子
橋の上は身動きが取れないくらい混んできて、この勢いだと、私の立ち位置と身長ではよく見えそうになかった。子どもの頃、ディズニーランドでパレードを待っていた遠い記憶が蘇ってくる。祖父に肩車してもらって見たこともある気がするけど、当然もう大人だから、誰にも肩車はしてもらえない。
「あ! 来た来た来た!! 来たよ!!」
年配の方が多いかと思いきや、私の隣でギャル2人組が盛り上がっている。先頭の神輿が橋に近づくにつれて、群衆からスマホを持つ手と自撮り棒が次々と伸びて、撮影OKのライブのような光景が広がっていく。自撮り棒がある今どきは肩車なんてしないのかもしれないなあ、と私はぼんやり思う。
神輿が一つUターンすると、しばらくして次の神輿が来る。そのたびに竹の先の提灯と、自撮り棒の先のスマホが重なって見える。これはまさに、伝統工芸と最新技術の交差。
ますます通りは見えなくなるので、前の人のスマホの画面越しに見るしかない。神輿を担ぐ人たちと神田側の人たちが軽く揉み合ったあと、神輿が高く持ち上げられ、拍手が湧き起こる。
ふと見上げると、目に映るのは日本橋の上を通る首都高。その首都高を、貨物トラックが時々走り抜けていく。ハレとケが、交差している。
あとから知ったのだが、この日本橋上の首都高は地下化され2040年に撤去されることが決まっているそうだ。今の状態では祭りに没頭しきれない気もするが、これはこれで大都市の祭りならではの、独特の味わいがあるようにも思えた。
Uターンしたあとのいくつかの町会の神輿は、髙島屋の正面玄関内で神輿を高く持ち上げる「差し上げ」をもってフィナーレを迎えるとのこと。見届けるべく髙島屋に向かう途中、一部交通規制が解除されたようで、神輿が信号待ちをしていた。信号待ちをさせられる神輿というのも、都会の祭りならではの風景だ。ここでも都市の機能は停止されず、ハレとケが同時にあるんだなあと思う。
正面玄関前に着くと人だかりができていて、日本橋以上に何も見えないが盛り上がっていることだけは伝わってくる。先に到着した神輿の差し上げが終わったようで、見ていた人たちが「すごかったね〜」「ね〜」と感慨深そうに出てくるのが、中で何が起こっているのかわからないお化け屋敷の待ち時間のよう。
髙島屋店内のスピーカーからかすかにテイラー・スウィフトが聞こえてくるということは、通常営業をしているということである。店内に入ってみると、「たまたま来たら何か祭りやってるから」と品の良い中年女性二人組が店員に話しかけている。町会ごとの合間に、正面玄関からも一般客を通しているようだった。
待っていると檜物町の神輿がやって来た。てっぺんに立派な金の鳳凰が鎮座する檜物町の神輿は、山王祭の神輿の中でも有数の大きさを誇っているらしい。
「セイヤッ!」と威勢よく担ぎながらも、髙島屋の高さギリギリの玄関アーチにぶつけないように、慎重にくぐらせて……無事に差し上げ。
「髙島屋のこの建物は重要文化財だから、ぶつけたらどっちも大変だよね」
拍手喝采のなか同行の編集さんが言う。神輿には町会ごとに異なる意匠が凝らされている。ぶつかりそうでヒヤヒヤするこの感じも、盛り上がりの一端を担っているようだった。
神輿を慎重に下ろしたあとは、町会の挨拶、髙島屋の店長による挨拶が行われ、ご祝儀が渡される。そして、あとは各々の御仮屋に帰っていく。
一連の神輿の巡行を見届けた私は東京駅に向かう。歩きながらふと一昨日「向こうにも日本一高いビルができる」と府川さんが言っていた、日本橋口に建設中のトーチタワーのことを思い出す。
「また街の様相が変わりますね。それでもここが府川さんにとって変わらずに“地元”だと思いますか?」と編集さんが問いかけると、府川さんは笑顔で「うん」と頷いた。
その屈託のない笑顔に私は少し拍子抜けした。地元を愛する生粋の江戸っ子ならば、変わっていく地元に対してもっと複雑な気持ちを抱くものだとばかり思っていたからだ。
「子どもの頃、お祭りは楽しみでしたか?」
「そりゃあ楽しみだったよ。当時は神輿じゃなくて山車だった。戦前までは山車を曳いてたんだよ」
変わっていく街と、祭り。少しずつ時代に合わせて変化しつつも、祭りを通して地域の人々がつながり続けている。
ちなみに山王祭では、2週間ほど前から準備も兼ねて、町会の人々が御仮屋に集まって酒を酌み交わすのが慣例なのだという。そこには、江戸時代からこの地域で割烹を営んでいる老舗の若旦那もいれば、最近この近くに焼き鳥屋をオープンさせた若き経営者もいる。大企業の社員もいる。今なおこれだけ盛り上がる山王祭を維持できているのは、府川さんのような、新しい時代を受け入れる姿勢があってこそなのかもしれない。
1995年生まれ。早稲田大学文学部卒業。大学時代よりライターとして活動し、現在はエッセイを中心にWebメディア、雑誌、映画パンフレットなどに寄稿。雑誌『GINZA』(マガジンハウス)のウェブマガジンに掲載した連載エッセイ「シティガール未満」が話題となり、2023年に書籍化。(アイコン写真 撮影:小財美香子)
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