日本の玄関口・東京駅を有する八重洲・日本橋・京橋エリアは、多くの人を受け入れるまちであるとともに、地縁的な結びつきも強いまち。注目の若手エッセイスト・絶対に終電を逃さない女が、このまちや人々を観察していく連載。
好きな食べ物は何ですか? と聞かれると、いつも返答に窮してしまう。特別好きな食べ物がないからである。
誰かに好きな食べ物を聞くのは、一緒に食事に行きたくて事前に調査しようとしている、というパターンがあることは大人になってから学んだ。その場合、こちらとしてもその人と食事をしたいと思っているのであれば適当に何かしら答えておくのが吉、というのは私でもわかる。となると、子供の頃に好きな食べ物として挙げていたオムライスやハンバーグなどがまず思いつくのだが、良い歳をした大人の好きな食べ物としてはいささか子供っぽいのではないかと気後れしてしまう。
好きな食べ物に寿司を挙げる人は多い。老若男女、誰が挙げても意外性がなく、じゃあ今度寿司行こう、という流れも作りやすい定番の食べ物と言えるだろう。
八重洲・日本橋・京橋の街や人について綴るこの連載のネタ集めも兼ねて、日本橋にある吉野鮨本店という、明治12年から続く老舗に連れて行ってもらえることになった。もちろん寿司も特別好きな食べ物というわけではないが、人並みに好きだし、せいぜいちょっと高めの回転寿司までしか知らない私の経済力では手の届かない、ご褒美のような仕事である。
東京建物のTさんと担当編集のSさんに連れられ、吉野鮨の暖簾をくぐると、そこには大手企業の重役といった風情の小綺麗な50〜60代の男性しかいない。
カウンターの向こうに立つ大将の吉野さんは五代目で、とても親しみやすい雰囲気がある。寿司屋の大将といえばいかにも厳格で気難しそうなステレオタイプをイメージしていた私は胸を撫で下ろした。
カウンターに並んで座り、鯛、ホタテ、コハダ、などが五分おきくらいに寿司下駄に置かれていく。私の口が小さいのか、寿司というのは一口で食べるには少し大きすぎると長らく思っていたのだが、ここのは小ぶりでちょうどいい。高い寿司屋はこのくらいのサイズ感なのだろうか、と思ったがなんとなく聞けずじまいになってしまった。
何が置かれたかは聞いているはずなのに、寿司に馴染みがないせいもあり、喋りながら食べているうちに失礼ながら何だったか忘れてしまい、何か美味しいものを頬張っているという幸福感だけが残っていく。
Tさんは仕事柄よく吉野鮨に来るようで、吉野さんとは顔馴染みらしい。
「毎朝何時起きですか?」
「6時」
「あー」
3人同時に発した「あー」に全員が「意外と遅いな」と思った空気を感じる。豊洲が近いためそんなに早く起きる必要はないという。
古くから続く家業を継いだ人に対して、私が最も気になることは、それ以外の道を考えたことがあるのかどうか、である。そう尋ねてみると、
「強いて言うなら大学受験の時に演劇科を受けたことがあって、落ちたから進まなかったけど、もし演劇を学んでたら俳優とかの道もあったのかなあ、と思うくらい」
とのことだった。
「吉野さんはすごい映画好きなんですけど、もし無人島に映画を一本だけ持っていけるとしたら何を選びますか? って以前聞いたことがあるんですよ。そしたら……」
Tさんが少しもったいぶってから発表したタイトルは、
『ノッティングヒルの恋人』
……なるほど、もったいぶるだけのことはある意外な回答に感心する。「偏見かもしれないですけど、小津安二郎とか選びそうですもんね」と私が言うと、
「それに映画好きにとって、一番好きな映画を答えるのって難しいじゃないですか」
とSさんは言った。
私は先日友人に言われたことを思い出した。複数人と食事をしていて、不意に「一番好きな食べ物は?」と聞かれた時だった。先述の通り、私は即答できず、特別好きな食べ物はないという説明をしたところ、その場にいた別の友人が言った。
「みんな特別好きな食べ物なんてないよ。でも人生と一緒だよ、仮にこれだって決めたらそれで突っ走るしかないんだよ。ちなみに俺は生姜焼き。特別好きなわけじゃないけど生姜焼きって決めてる」
私はこれに大変感銘を受けたのだった。もちろん特別好きな食べ物や一番好きな食べ物が明確にある人もたくさんいるだろうが、特にないけど決めている食べ物がある、という人も少なくなさそうな気がする。
無人島に持っていく映画を決めたら、無人島にいるあいだはその一本で突っ走らなければならない。それと同じようなものなのかもしれない。
19時を過ぎると店内はカウンターからテーブル席までほぼ満席になり、老夫婦から今風の若者、クリエイティブ系っぽい中年男性など、客層のバリエーションも増え、案外普通の居酒屋のような賑やかさを帯びていく。
私たちの会話も、メンヘラがどうだの美容医療がどうだのと老舗の寿司屋には似つかわしくない話題になっていく。40代のTさんとSさんが、最近肌の乾燥がひどくて目尻の皺にファンデーションが溜まるようになったという話で共感しあっていた時、私がリクエストしたイクラの軍艦巻きが置かれた。今まで食べてきた安物のイクラとは表面のハリが違うと感じ、人間の肌と似ているなと思った。
私は人より食べるのが遅く、喋りながらだと輪をかけて遅くなってしまうのだが、こうして寿司一つを食べ、お茶を飲み、次の寿司を待ちつつ喋り、また出された寿司を一つ食べて……と繰り返す形だと、みんなゆっくり食べるので差がつかないところが嬉しかった。そのテンポが自分に合っていて心地良いようにも感じたし、目の前にいる人から美味しいものをこまめに与えられているという事実にも、何か心が満たされるところがあったように思う。
最後にTさんから、若女将さんに聞きたいことを問われ、私は自分の祖母がかつて和菓子屋の長男とお見合いをした際に毎朝早くから小豆を混ぜたりするのが嫌で断ったという話を思い出し、「結婚に迷いはなかったのかが気になる」と答えた。
奥の暖簾から顔を出す若女将さんは、女優のような凜とした佇まいだった。
お客さんの女性たちも、何やら女優のような雰囲気を醸していた。特に、襟の大きなコートを羽織ってスパイラルパーマをかけた、70年代の香りが漂う桃井かおりのような貫禄と品のある女性。連れの男性とは夫婦にも、結婚していないカップルにも、古い友達にも見えた。
あんなふうに歳をとれたらなあと思いながら眺めていると、ちょうど若女将さんが私たちの席にやってきた。
素直に気になることを答えただけで本当に尋ねるほどの図太さはないつもりだったのだが、Tさんにどうぞ、と促され、若女将さんに直接その質問をすることになってしまった。
こういう老舗の家業を継ぐ長男の男性と結婚するというのは、一般的には覚悟や勇気のいることだと思うんですけど……と私が歯切れ悪くおそるおそる切り出すと、
「すごい嫌でしたよ!」
あっけらかんと若女将さんは答えた。バイト先で出会って5年ほど付き合って結婚を決めたが、ハネムーンから帰る飛行機の中では、明日の朝から寿司屋での仕事が始まるのかと思うと憂鬱だった、とのこと。
別の人生を想像したりすることはないんですか? と聞いてみると、
「それが楽しいんじゃない!」
と満面の笑みをたたえながらの即答。人が、ありえたかもしれない別の人生を夢想する時。それはたいてい現実の人生に納得しきれていない時で、どちらかというと負の感情を抱くものだとばかり思っていた私は、それこそが楽しい、という発想もあるのかと、目から鱗が落ちるようだった。
私は好きな食べ物だけでなく、人生のあらゆる選択において迷いだらけで、本当にこれで良かったのかと未練がましく思い続けてしまうタチである。一度決めたらこれしかないのだと折り合いをつけていくという態度が、私には足りないではないか。
職業も結婚も、無人島に持っていく映画も、好きな食べ物も、どこかのタイミングで決めたら突っ走っていくしかない。
今度好きな食べ物を聞かれたら、寿司って答えようかな。そんなことを密かに思った夜だった。
写真/波田野州平
吉野鮨本店
1995年生まれ。早稲田大学文学部卒業。大学時代よりライターとして活動し、現在はエッセイを中心にWebメディア、雑誌、映画パンフレットなどに寄稿。雑誌『GINZA』(マガジンハウス)のウェブマガジンに掲載した連載エッセイ「シティガール未満」が話題となり、2023年に書籍化。(アイコン写真 撮影:小財美香子)
X:@YPFiGtH
Instagram:shudengirl