大通りから一歩入れば、どこか庶民的な風情が感じられる八重洲・日本橋・京橋エリアで、気になるあの人のインフォーマルなつながりとは?
\今回話を聞いたのは/
ギャラリー椿 前オーナー
椿原弘也さん
1946年東京都生まれ。69年慶應義塾大学卒業後、大阪「梅田画廊」本店に入社。椿近代画廊を経て、83年にギャラリー椿を設立。これまで新美術商協同組合理事長、アジア・パシフィック画廊協会日本代表などを務める。2023年にギャラリー椿オーナーを引退。
ギャルリー東京ユマニテ オーナー
土倉有三さん
1947年京都市生まれ。65年「大阪フォルム画廊」大阪本社に入社。翌年、東京店勤務。74年に副店長に就任。84年「ギャルリーユマニテ東京」の店長を経て、2000年より代表を務める。
――同じ団塊の世代に生まれ、半世紀にわたりアート界に身を置く椿原さんと土倉さん。大阪の修業時代を経て、ギャラリストとしてここ東京・京橋のアートシーンを牽引してきた足跡も近似する。アート市場の現実。それは変動し続け、その変動は時に劇的なものであるということ。羅針盤のない世界で、多くの作家と顧客の信頼を勝ち得てきたふたりが、一貫して意識してきたこととは? 2023年8月、惜しまれながらギャラリーオーナー職を退任した椿原さんが土倉さんを指名する形で行われたスペシャル対談。
椿原
もう50年も前のことになりますか。私が大阪の梅田画廊というギャラリーで修行していた時代に土倉さんも同じ大阪で大阪フォルム画廊に勤めていて。お互いディーラーズオークションなどの場で顔を合わせてましたね。私は大阪には約5年いて、その後父が新宿で営む椿近代画廊に勤めたんです。ところが途中で、方針の違いから父とけんかしまして。そのまま画廊を飛び出し、1983年に京橋で開いたのがギャラリー椿でした。
ギャラリー椿
土倉
私は、大阪時代の先輩である西岡務さんが独立して名古屋に開いたギャルリーユマニテが東京支店を設立するのに、その支店長としてお声がけいただいて。1984年のことです。1997年に西岡さんが亡くなりしばらくは奥さまが代表を務められましたが、2000年にギャルリーユマニテ東京の方を残して私が引き継がせていただいたかたちです。
椿原
ユマニテといえば、当時まだ駆け出しのアーティストだった奈良美智(なら よしとも)さんの作品も早くから扱っていましたよね?
土倉
そうなんです。名古屋のユマニテでの展覧会が、奈良さんにとって初めての個展でした。その後東京支店でも数回、奈良さんの個展を開催しています。奈良さんに限らずうちでは、無名に近い作家さんを手がけることが多いですね。一人の作家さんをいかに広めていくか常々考えています。だから展覧会は年間に十数回も開くし、同じ作家さんと何十年も付き合う。その点ではある意味“商売下手”なのかもしれません(笑)。
ギャルリー東京ユマニテ
椿原
それをずっとやってきた土倉さんを尊敬します。私もたとえ売れなくても作家をずっと応援し続けると心に決めています。大したことはできないかもしれないけど展覧会だけはやり続けるよと。実は私が70歳の古希を迎えた時、90人もの作家さんたちが作品を作り私のお祝いの展覧会を開いてくれて。長いことやってきてよかった、本当に嬉しかったですね。
椿原さんの古希をお祝いする展覧会の様子(写真提供:椿原さん)
椿原
当時は画廊といえば銀座だったんですが、家賃が高かったので青山を探したところやはり同じくらい高い。そんな中父親と親しかった京橋3丁目の京橋画廊の社長さんが「隣が空いているよ」と。レストランだった場所を旧知の内装屋さんが“代金はあるとき払いの催促なし”との条件で改装してくれたんです。その場所で20年商い、再開発を機にご縁もあって路地を挟んだ向かいの今の場所に。
土倉
私はこの界隈を転々としてきまして。最初が京橋のとなりの銀座一丁目。次がギャラリー椿と同じ京橋3丁目で、やっぱり再開発で。今度は京橋2丁目にいったのですがそのビルも建て替えになったことから、京橋3丁目に戻って今に至ります。
椿原
80年代の京橋は、古美術店が多く集まる中に私たち以外にもちらほら新しい現代アートのギャラリーができ始めてきたぐらいのころ。とはいえ、現代アートの先駆的な存在だった南画廊と若い現代アートの作家たちを紹介していた南天子画廊はもうだいぶ前からあって、京橋といえばなんとなく近代アートより現代アートのイメージがありましたね。
土倉
確かに。エスタブリッシュなイメージの銀座6~7丁目の並木通り辺りのギャラリーに対して日本橋や京橋、新橋に近い銀座8丁目の昭和通り辺りに新しいギャラリーが多かったですね。こうした一連のギャラリーをまとめて廻る熱心な方も多くいて。うちもそのルートから逸れない場所を選んできました。
椿原
ルートからちょっと離れると、お客さんが面倒くさがって来れてくれないというのが明らかでしたよね。
土倉
正確に数えた人はいないかもしれませんが日本橋から新橋まで、古美術商や日本画商なども含めると、当時のギャラリーの数は500とか?
椿原
銀座の並木通りだと飲み屋さんがあるし、高級ブランドのブティックもあってそうしたお客さんが近くのギャラリーに立ち寄ることもしばしば。一方、京橋はビジネス街で普段いる会社員はギャラリーをあまり訪れない。そのかわり、銀座とはまた違うコアな人たちがギャラリーを訪れてくれたんです。そうした人たちのおかげでなんとかがんばってこれたのかなと。
椿原
京橋には銀座や日本橋と違って映画館もデパートもないので、美術商は京橋の地場産業といえると思うんです。なのでこの界隈の現代アートのギャラリーを誘って同時期に展覧会を企画したこともありましたよね。参加したのはうちとユマニテ、南天子画廊、そしてヨーロッパの先鋭的な現代美術作家を日本に紹介し、名物的存在だったかんらん舎など10軒ほどでした。
土倉
最初は1995年?
椿原
もう30年近く前ですね。「京橋界隈」というこの展覧会をそこから10回くらいやってきたのはいってみればアートを使った“町おこし”。背景にはやっぱり画廊といえば銀座のイメージがあったので、京橋は京橋で差別化を図りたかった。
土倉
当時はバブルも弾けお客さんの流れが非常に悪くなってきていた時期。そんな中行われた「京橋界隈」に、大きな効果を感じました。こうした地域のギャラリーが協力してエリアのことを知ってもらう取り組みは、後に銀座や青山、谷中など他の地域でも見られますが、京橋がその先鞭をつけたのかなと。
椿原
あの頃を境に京橋には現代アートのギャラリーがどんどん増えていきましたね。界隈のギャラリーの人たちで集まって忘年会もしたりして。
土倉
派手なこともいろいろやりました(笑)。
椿原
地方のディーラーズオークションに、みなさんで旅行を兼ねて行くこともありましたよね。
土倉
そうやって信頼関係を築いて、助け合ってきたことを思い出します。
椿原
そうそう、1千万円や2千万円する作品を他のギャラリーから借りて委託販売するといったことも、信用できる間柄だったからこそだと思います。
土倉
いい時代も悪い時代も京橋とアートは切っても切り離せませんね。時代が変わり路地裏のギャラリーが減るのは寂しいですが、たとえば2020年にできたアーティゾン美術館や24年竣工のTODAビルなど、大規模な施設でアートを大々的に扱う例も少なくない。
椿原
土倉さんがおっしゃる通り、今後は大きなビルに文化施設が入る動きが、いっそう進むでしょう。大企業が文化に目を向けその普及に努めることで、よりアートが身近なものになる。結果、それが小さなギャラリーにも普及して相乗効果が生まれるのではないでしょうか。そしてかたちは変わっても、アートは京橋の地場産業であり続け、私たちは作家の人生に寄り添い続けるのだと。
撮影:斉藤美春
撮影協力:レストランサカキ
田嶋章博
ライター
ビジネスとカレーのライター。各種メディアで、ビジネスやカルチャー関連の記事を執筆。あわせてカレーライターとして発信、執筆。東京でネパール定食・ダルバートを食べられる店をまとめた「東京ダルバートMAP」を運営。