vol.6『八重洲、夜の路地裏で出合えるのは、新鮮な感動と、いつもと変わらない安心感』

2025.03.27

日本の玄関口・東京駅を有する八重洲・日本橋・京橋エリアは、多くの人を受け入れるまちであるとともに、地縁的な結びつきも強いまち。注目の若手エッセイスト・絶対に終電を逃さない女が、このまちや人々を観察していく連載。

東京駅八重洲口を出ると、右にも左にも高層ビルを建てている工事現場があり、巨大クレーンの頭がいくつも見える。そんな再開発の進む八重洲口前の大通りを少し進んで横道に入ると、高層ビルに取り囲まれたような、老舗の飲食店が立ち並ぶレトロな一画が現れる。あるテレビ番組で「奇跡の路地裏」と表現されていたとおり、確かにそれも過言ではない異様な佇まいである。

 

その路地裏にある創業50年の寿司屋「すし処 伴(とも)」で待ち合わせをしたのは、今回この路地裏界隈を案内していただくことになった、東京建物に勤めて38年の北村さん。

もしもこの人が悪人だったらもう誰のことも信じられなくなるだろう、と第一印象で思わせられるほどの善人オーラに、私は圧倒された。まるで新聞の4コマ漫画から飛び出してきたかのようなコミカルな和やかさで、この地域の人々と長年信頼関係を築いてきたことが伺える。

そのうえ伴の常連でおすすめのメニューなども知り尽くしていて、大将とも旧知の仲だという北村さんは、回らない寿司屋に不慣れな私にはたいそう心強い。

 

「昔は3日寝ずに麻雀やったりしてたよ。金曜の夜から日曜まで!」

大将の若かりし頃の武勇伝(?)をカウンター越しに聞きながら、これでもかというくらい脂の乗ったトロをつまむと、私はずいぶんと豪勢な気分になった。

一番人気という「鯖のたたき」はにんにくが効いていて美味しく、見た目もカルパッチョ風で垢抜けている。不揃いな鋭い三角形や四角形に切られた卵焼きもなんだかアーティスティックだ。
昔ながらの懐かしさの中にさりげなく最先端な雰囲気も感じられる様は、この奇跡の路地裏という立地を象徴するかのよう。

 

大将が披露してくれた昭和のダイナミックなエピソードの数々も刺激的だったのだが、北村さんの思い出話もまた、味わい深いものだった。

特に印象に残ったのは、神奈川の厚木の実家から都心の大学に通い始めた北村さんが、新宿に行った日のこと。

「まだ都会での遊び方を知らなくて、本屋なら入りやすかったから、とりあえず紀伊國屋書店に行って、地下にあるJinJinっていうパスタ屋でパスタを食べた時……うめ゛ーー!! と思ったね。味は覚えてないけど、その時の感動は覚えてる」

その時のパスタが人生で忘れられない美味しさの2つのうちの1つだという北村さん。

「もう一つはこれも大学時代、先輩に連れて行ってもらったバーで飲んだハーパー。丸い氷のオンザロックで、めちゃくちゃ美味かった! 口の中でとろけるようなね……」

「うめ゛ーー!!」と「めちゃくちゃ美味かった!」の力の入り方に、色褪せない感動が込められていて、本当に忘れられない味なのだろうと伝わってきた。

 

伴を出ると、その隣の立ち飲み屋「呑うてんき」の入り口付近で飲んでいる人たちが目に入る。下町によくあるような昔ながらの立ち飲み屋で、この路地裏を象徴するお店と言えそうだ。

店内は近隣のサラリーマンで賑わっていて、意外と若い人も多く、ペヤングを勢いよく啜っている。厨房との境目には洗濯バサミで留められた市販のポテトチップスが暖簾のように並んでいるが、これも買えるのだろうか。見た目だけでなくこの活気と大雑把な感じも含めて、まるで昭和で時が止まっているかのよう。

 

タモリ倶楽部でも取り上げられたことがあるらしい名物のハムカツをつまみながら、私たちはそれぞれの忘れられない美味しさの話に花を咲かせた。

同席していた編集のSさんは、大学時代のバイト先の社長に連れて行ってもらった本格的なイタリアンや中華。

私はというと、生牡蠣である。大学時代、先輩に連れて行ってもらったスナックで食べた生牡蠣。それまで生牡蠣を食べたことがなかった私は、その美味しさに衝撃を受けたのだが、その生牡蠣が特別美味しいものなのか、生牡蠣というものはおしなべてこのくらい美味しいものなのか、判別がつかなかった。その後何度か生牡蠣を食べる機会はあったものの、あの時の生牡蠣にはどうも及ばない。

「最初だったから美味しく感じたんじゃない?」

北村さんが言った。

確かにそれもあるような気はしていた。あの牡蠣の詳細は忘れてしまったが、牡蠣を売りにしているわけでもなければ高級なお店でもなかったのは事実である。

北村さんとSさんにしても、その後いろいろ高級なものや美味しいものを食べてきたはずなのに、忘れられないのはいずれも大学時代に食べたものなのだ。

初恋が思い出に残るのと同じように、初めて食べた時が特別なものになるのだろうか。

呑うてんきを出て、通りすがりのまちの人たちから次々と親しげな声をかけられながら北村さんが次に連れて行ってくれたのは、路地裏からは少し外れたところにあるバー「風長閑(かぜのどか)」。

風流でありながら可愛らしい響きもある洒落た店名に期待が高まる。風月堂のビルに入っているのもオシャレだ。看板の筆字のフォントには、なんとなく見たことのない独特な印象を受けた。

地下の店内は、カウンターとテーブル席があり、壁に絵画がいくつか飾られていて、木製の椅子やテーブル、緑の革張りのソファのせいか、喫茶店のような趣も感じる。

そう思ってメニューを開けば、ソフトドリンクの充実ぶりに驚く。ノンアルコールカクテルやソフトドリンクだけでなく、コーヒーやお茶まである。しかもお通しには、漬物とゆで卵。

下戸の私がブルーベリーの、同じく下戸のSさんがマンゴーのノンアルコールカクテルを頼むと、カクテルグラスに入ったフラッペのようなフローズンドリンクが出てきた。マンゴーバージョンはなんと生のマンゴーがふんだんに乗っていて、パフェのようでもある。

存在を許されている気がする……! と酒場で肩身の狭い思いをしがちな私たちははしゃいだ。

 

「苺大福とどら焼きどう?」

たくさんの苺大福とどら焼きを載せたお盆を持ったママが、突如背後から現れる。

苺大福を頬張りながら、先日訪れた際はアップルパイをいただいたとSさんが教えてくれた。北村さんによると、手作りのお惣菜や鍋料理が出てきたこともあったという。どうやら日によっていろんな食べ物を出してくれる、“気まぐれシェフ”ならぬ“気まぐれママ”的な側面もあるらしい。

パフェのようなノンアルコールカクテル、ゆで卵、漬物、苺大福。おそらく人生で後にも先にも二度と経験することのない組み合わせなのではないか。

 

着物の着付けの先生をやっているというママは、この日も美しい着物を召されていた。

「昔一度だけ着付けを習ったことがあって、2時間もかかったんです。車と一緒で、日常的にやらないとできなくなる」と話すSさんに、「私は15分で着られる。週一は着ないとダメ、慣れよ慣れ!」と言うママ。

私はその会話を聞きながら、忘れられない味を思い出す。最初は感動した美味しさも、繰り返し食べるうちに慣れていくのだろうか。慣れるほど感動は薄れていくものなのだろうか。

初めて自分で着た着物は、どんなに時間がかかって苦労してもその時にしかない感動があるものなのだろうか。慣れて早く着られるようになれば、薄れる何かもあるのだろうか。

 

看板の店名のフォントが素敵だと伝えると、ママはお店の名刺をくださった。その名刺に印刷された店名に、私はさらに惚れ惚れした。まさに「風長閑」の意味を体現したような、柔らかさを感じさせるくずし字。いつまでも、いつまでも眺めていたくなるような不思議な魅力がある。看板とはまた違う印象を受けたので聞いてみると、それぞれ別の人が書いていて、名刺のほうはママの娘さんの習字の先生が書いたものだという。

 

店名の由来も聞いてみると、

「店を開く時、風月堂のビルだから「風」を入れた名前を考えてたら、茶道の先生に勧められて神社でおみくじを引いたの。そしたら大吉で、それに書いてあった和歌がね」

ママはおもむろに筆ペンのキャップを外し、カレンダーの裏紙に書き始める。

 

「桃桜花とりどりに咲き出でて風長閑なる庭の面哉」

(ももざくら はなとりどりにさきいでて かぜのどかなる にわのおもかな)

 

その茶道の先生を師匠として仰ぐママは、先生との運命的なエピソードの数々を聞かせてくれる。そして「私、これ大好きで配ってるの」と、先生の直筆原稿をコピーしたという紙を私たちに配った。

私はそれを一目見て息を呑んだ。

一行一行に一本のまっすぐな芯が通ったような、縦書きの筆字。紙に罫線があったとしても、生身の人間がこんなにブレのない字を書けるものなのだろうか。

「達筆」という言葉で済ませるには美しすぎる、見ているだけで背筋が伸びそうな字だった。

書道などには興味も知識もなかったはずの私が、ただの文字にこんなにも感動することがあるとは思いもしなかった。

私はこの衝撃を一生忘れないだろう。帰ったら紙と名刺を部屋に飾ろうと思い、持っていたクリアファイルにそっと挟んだ。

 

そうして夜更けが近づいた頃、ハーパーをおかわりした北村さんを見て、「このハーパーはあの初めてのハーパーと比べてどうですか?」と聞いてみた。

「うーん……美味しいけど、いつものハーパーって感じですね」と北村さんは目を細めて笑った。

 

北村さんがハーパーを飲み干すのを待ってみんなで店を出ると、ママが「また明日ね!」と見送ってくれた。

また明日。もちろん私たちが明日も会うはずはないのだが、そう言われてみると、明日が無事に来るような気がして良いものだなと私は思った。

いつもの着物、いつものハーパー、いつもの明日。

最初は鮮烈だったものが、慣れて「いつもの」になる。そこにあるのは、無事に明日が来るような、あたたかい安心感なのかもしれない。

そしてその安心感は、大都会の片隅でいつまでも変わらない路地裏そのものにも似ていた。

撮影/wakana

  • すし処 伴

    住所:東京都中央区八重洲1-5-21

    電話番号:03-3278-1644

  • 立ち飲み処 呑うてんき

    住所:東京都中央区八重洲1-5-17

    電話番号:03-3276-3150

  • 風長閑

    住所:東京都中央区日本橋2-2-8 風月堂ビルB1F

    電話番号:03-3231-0140

絶対に終電を逃さない女
文筆家

1995年生まれ。早稲田大学文学部卒業。大学時代よりライターとして活動し、現在はエッセイを中心にWebメディア、雑誌、映画パンフレットなどに寄稿。雑誌『GINZA』(マガジンハウス)のウェブマガジンに掲載した連載エッセイ「シティガール未満」が話題となり、2023年に書籍化。(アイコン写真 撮影:小財美香子)

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