第三回 名物案内(後篇) 行き先:江戸中期から後期の上槇町

2024.03.01

江戸の昔から人と物が集まり、「時代の最先端を生むまち」として発展してきた八重洲・日本橋・京橋エリア。ダイナミックなこのまちの変遷を文献や史跡などの痕跡を頼りにたどる、ひとときの時間旅行。

童謡から生まれた「べにうりおまん」

「京橋中橋 おまんが紅」。「天が紅」から「尼が紅」へ転じ、家康の側室であるお万の方を祀る於満稲荷神社と結びついた童歌。その経緯は前篇で述べたが、後篇では「おまん」の名で評判を呼んだ名物をたどっていきたい。

  • 於満稲荷が建てられた上槇(槙)町は、現在の八重洲一丁目から日本橋三丁目にかけてのエリアにあたる

その発端となったのは「紅粉」だ。すでに前篇で、亨保年間(1716〜1736)に於満稲荷では紅粉を供えて願かけをするようになったと書いた。「おまんが紅」というフレーズから「於満稲荷の紅粉」が名物になるとはやや安直な気もするが、直感的なわかりやすさはいつの時代もヒットの条件なのかもしれない。

 

江戸中期の浮世絵師である奥村利信の作品に、「佐野川市松 べにうりおまん」(東京国立博物館蔵)と題する美人画がある。美人画を得意とした奥村利信は、漆絵の作品を多く残しており、この作品もそのうちの1枚だ。

 

佐野川市松(1722~1762)は人気の歌舞伎役者で、その容姿端麗さゆえ、たびたび浮世絵に描かれた人物である。余談だが「市松模様」は、市松が石畳の模様(色違いの正方形を交互に配した格子柄)の着物を好んで身につけたことから、その名がつけられたとされる。

 

奥村利信の生没年は不詳だが、作品の多くが1730〜1740年前後に描かれており、市松の活躍した時期とあわせ考えると、おそらく寛保年間(1741〜1744)の作ではないかと考えられている。描かれているのは、左手には紅猪口、右手には紅筆を持つ、市松扮する紅の振り売りの姿。もともと「おまんが紅」の「紅」は「頬紅」を指していたが、化粧の仕方が享保の頃を境に変化し、この頃には頬紅はあまり使われなくなっていた。そのため、紅といえば口紅ということになったのだろう。そして、女性が背負っている箱には「京橋 中橋 おまんがべに」のフレーズが書かれている。

 

ただ、実際にこのような装いの振り売りが往来を闊歩していたかは定かではない。ほかに類例がないからだ。だが、当時のスターと紅売りが結びついたこと自体が、「おまん」という女性の名を、魅力ある女性の代名詞に押し上げることに一役買ったことは間違いないだろう。こうして形づくられていった女性像はもはや「紅」という小道具の力を借りることなく、新たな江戸名物を生み出す源になっていく。

「おまん」の名を冠したおからずしの登場

天明5年(1785)に刊行された器土堂主人著『鯛百珍料理秘密箱』に、「江戸おまんすし」という料理が出てくる。同書は、いわゆる「百珍もの」の1冊だ。百珍ものとは、卵や豆腐など1つの食材を取りあげて約100通りの調理法を紹介したレシピ本のこと。江戸の中期から後期にかけて料理本の出版が盛んになるが、なかでも「百珍もの」は売れ筋企画だった。

 

同書によると「おまんすし」は、米の代わりにおからを使った押しずしの一種である。そのつくり方はというと、材料の小鯛はあらかじめ塩漬けにしたものでも、生のものに塩をきかせたものでもよく、骨を取り除き、おからを入れる。大事なのはおからの加減で、醤油と酒で味つけをして、からりとなるまでしっかり煎り、よく冷ますようにと記されている。そのおからに、下ごしらえをした小鯛を漬け込み、重しをしてつくる。

 

本にまで載るようになった「おまん」の名を冠したすし。それはどのようにして生まれたのだろうか。探ってみると、やはり「おまんが紅」と関係があることがわかった。

  • 文久3年(1863)再刻『文久再鐫八町堀霊岸島日本橋南之絵図』(尾張屋清七版)より、京橋から中橋に至る部分図。一番右の赤い四角で囲まれた場所が於満稲荷神社。於満稲荷のある上槇町の北隣が檜物町(提供・東京都立中央図書館特別文庫室)

江戸の見聞集『江戸塵拾(えどちりひろい)』(芝蘭室主人著、序文は明和4年=1767)には「おまんずし」の項がある。それによると、京橋と中橋の間で売られている名物で、始まりは宝暦年間(1751〜1764)の初めに長兵衛という者が開いたすし屋だと記されている。名前の由来については、江戸の子どもが夕日の雲が紅く染まるのを見て「京橋中橋 おまんが紅」と歌う戯れから命名されたとある。

 

一方、天保7年(1836)に木下梅庵が「方外道人」の別名で著した『江戸名物詩初編』には、おまんずしを初めて売り出した店として〈紀伊國屋於満鮓 上槙町新道〉の名が明記されている。いつ開業したかは不明だが、何代も続いて、市中に知れ渡っているという。さらに海苔、卵の塩梅がよく、女房だった於満の名で知られていると書かれていた。『鯛百珍料理秘密箱』に出てこない海苔、卵がいい塩梅だとあるから、時間とともにおまんずしは変化していたのかもしれない。また「紀伊國屋」という屋号、「上槙町新道」という住所も新しい情報だが、注目したいのは「於満」という看板の女房がいたということである。

 

ただ、実際に「於満」という名の女性が実在したかどうかは疑わしい。上槇町はすでに述べたとおり、於満稲荷がある場所だ。その門前で売り出したすしに神社の名前を冠したと考えるほうが自然だろう。偶然にも「おまん」という名の女房がいたというより、単にきれいな女房がいただけかもしれない。あるいは、端からそんな女房はいなかった可能性だってある。「おまん」という言葉に引っ張られて、そこに美人の女房がいたという噂が生まれたとしてもおかしくはない。

 

真偽のほどはたしかめようもないが、ただ言えるのは「おまん」という名を冠したことで、そのすしの名を聞いた江戸の人々は即座に「京橋中橋 おまんが紅」のフレーズを思い浮かべたに違いないということ。そして、それがどのあたりで売られているかも容易に想像できただろうということだ。

  • 「江戸おまんすし」のレシピが記されている、天明5年(1785)刊の器土堂主人著『鯛百珍料理秘密箱』

  • 天明7年 (1787)刊『七十五日』には、おまんずしの店として「ふしや利右衛」が掲載されている。画像は複製本(山田清作編、大正12年=1923刊、米山堂)より(ともに提供・国立国会図書館デジタルコレクション)

市中を沸かせた「おまんが飴」売り

天明8年(1787)刊行の『江戸町中喰物重宝記』という江戸のグルメガイドを見ると、おまんずしの名店が複数、掲載されている。

 

於満稲荷の近くだと、日本橋南通四丁目西新道(現在の日本橋三丁目付近)の〈きのくにや藤ゑもん〉。〈御膳一流〉と謳われているのは〈ふしや利右衛〉という店で、堺町通元大坂町(現在の日本橋人形町一丁目付近)の本店と、浅草並木町(現在の雷門二丁目付近)の支店がある。おまんずし以外に折りずしや笹巻きずしなど多種のすしを扱う、人形町通田所町(現在の日本橋堀留町二丁目付近)の〈すしや六右衛門〉という店もある。於満稲荷と「おまんが紅」の童謡にあやかって売り出された「おまんずし」は、いつしかおからずしを指す一般名称になり、江戸を代表する名物になっていたのである。

 

そしておまんずしの誕生から、さらに半世紀ほど。文化年間(1804〜1818)の終わりに、今度は珍妙な飴売りが現れる。

「おまんが飴じやに 一丁が四文(しもん)」。女装した男が女の声色を使い、そう歌い踊りながら通りを練り歩く。頭上には笠を被り、肩には青い和紙を貼ったかごをぶら下げた棒を担ぎ、歩くたびに赤い前垂れがひらひらとはためく。

 

売っているのは「おまんが飴」と名づけられた飴。けったいな姿に目を奪われ、通りを歩く人は思わず足を止める。人だかりのなかから「1つ、買ってみようか」というもの好きが現れ、四文銭を差し出す。すると、飴売りはお礼とばかりに「ほんにおもへば、きのうけふ、ちいさい時から、おまへにだかれ」などと常磐津節(※)をひとくさり、女の身ぶりをまじえて歌い出す。その様子を見物していた老若男女はやんやと拍手喝采、もうちょっと続けろとばかりに銭を取り出す者が次々現れる――。

 

(※)常磐津節…物語に節をつけて語る「浄瑠璃」の一流派で「常磐津」とも。歌舞伎の伴奏音楽として発展。

  • 石塚豊芥子(ほうかいし)ほかによる『近世商賈尽狂歌合(きんせいあきないづくしきょうかあわせ)』(序文は嘉永5年=1852)。江戸の行商人とその売り口上を描写したもので、おまんが飴も登場する

  • 明和7年(1770)刊行の『一蝶画譜』(英一蝶原画、鈴木鄰松編、雁金屋儀助蔵版)に登場する唐人飴売り(ともに提供・国立国会図書館デジタルコレクション)

江戸時代の行商人は人目を引くため、奇抜な格好をした者が多かった。楽器や小道具を駆使したり、変装をしたり。なかでも飴売りは、江戸の風俗を記した百科事典『守貞漫稿』(喜田川守貞著、序文は嘉永6年=1853)に〈毎時種々の異扮をして〉いると記されているように、唐人の格好をしてチャルメラを吹いたり、三味線を弾いたりして、大道芸人かと見まごうような身なり、所作だったらしい。そうしたなか、とりわけ人気を博したのが女装した「おまんが飴」売りだった。

 

このヘンテコな飴売りと、美女を想起させる「おまんが紅」とは一見、かけ離れているように思われる。だが、そこには隠れた接点がある。

 

先の描写で参照したのは青葱堂冬圃(せいそうどうとうほ)の随筆『真佐喜のかつら』(成立年不明)である。同書には〈文化の末より町々飴売ありく男あり、平常黒木綿の衣類へ大きなる角木瓜(かくもっこう)の五所紋を付、青紙ニて張たる笊をおふごにてかたげ〉という一文から始まり、「おまんが飴」の詳細が綴られている。

 

「角木瓜」といえば、常磐津の創始者である文字太夫の紋だ。文字太夫が初めて「常磐津」を名乗ったのは延享4年(1747)、中村座で二代目市川團十郎、初代澤村宗十郎、初代瀬川菊之丞の「三千両の顔見世」が行われたとき。中村座といえば、「おまんが紅」で謳われている中橋で江戸歌舞伎を創始したとされる一座である(第一回後篇の「天保年間の中橋広小路」参照)。しかも文字太夫は上槇町に隣接する檜物町出身者とされる。

 

さらに奥村利信の筆による「べにうりおまん」を思い出してほしい。おまんに扮して描かれていたのは、歌舞伎役者の佐野川市松である。つまり、紅を売るおまんは女装した男性ということだ。仮装大会の様相を呈していた飴売りのなかでより目立つ方法としてひねり出されたのが、歌舞伎のモチーフを土地と結びつけ、おもしろおかしく取り入れた「おまんが飴」だった。そう考えると合点がいく。

想像力をかき立てた「おまん」の名

興味深いのはその後、おまんが飴が逆に歌舞伎の題材になっていることだ。天保10年(1839)の中村座の舞台『花翫暦色所八景(はなごよみいろのしょわけ)』で、4代目歌右衛門がおまんが飴の物売りを演じ、大当たりした。歌川国芳や歌川国貞といった浮世絵師たちがこぞってその姿を描いたこともあって、おまんが飴売りは時代の寵児となった。だが、そのブームは長く続くことはなかった。

 

天保12年(1841)から断行された綱紀粛正と奢侈禁止。世にいう「天保の改革」によって、歌舞伎は弾圧を受け、派手な物売りも取り締まられてしまう。おまんが飴売りも通りからの撤退を余儀なくされたのである。

 

一方、おまんずしはというと、嘉永5年(1852)の『江戸名物酒飯手引草』に上槇町の〈紀伊國屋吉右衛門〉という店が載っているから、長きにわたって親しまれてきたことがわかる。さらに驚くことに、島根県石見地方には、江戸から伝わったとされる「おまんずし」が郷土ずしとして現代に受け継がれている。

 

商売繁盛の願いを込め、町人たちによって勧請された於満稲荷。その空間から生まれた童謡はやがて一人の女性像を結び、ときに実在の人物に憑依し、ときに見世物に姿を変え、そのたびに土地の記憶を呼び覚ましながら、市中を漂い続けた。

写真や映像などない時代にあって、耳から入ってくる情報は今よりずっと影響力があったのだろう。そしてそれは、想像の余地を豊かに残すものでもあった。経済を回し、町を活気づける原動力になったのは、もしかしたら江戸の人々のたくましいイマジネーションだったのかもしれない。そんなことをやわらかな「おまん」という名の響きは示唆している。

 

参考文献:
岩本佐七編『燕石十種〈第3巻〉』国書刊行会、1908年
『未刊随筆百種〈第8巻〉』中央公論社、1977年
朝倉無声著、川添裕編・解説『見世物研究姉妹篇』平凡社、1992年

澁川祐子
ライター/編集者

食と工芸を中心に編集、執筆。著書に『オムライスの秘密 メロンパンの謎ー人気メニュー誕生ものがたり』(新潮文庫)、編集・構成した書籍に山本教行著『暮らしを手づくりするー鳥取・岩井窯のうつわと日々』(スタンド・ブックス)、山本彩香著『にちにいましーちょっといい明日をつくる琉球料理と沖縄の言葉』(文藝春秋)など。

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