第五回 商い案内(前篇) 行き先:江戸中期の通一丁目

2024.07.04

江戸の昔から人と物が集まり、「時代の最先端を生むまち」として発展してきた八重洲・日本橋・京橋エリア。ダイナミックなこのまちの変遷を文献や史跡などの痕跡を頼りにたどる、ひとときの時間旅行。

田山花袋と日本橋の丸善

田山花袋(たやまかたい)の「日本橋附近」と題する随筆に、丸善の話が出てくる。丸善は明治2年(1869)、西洋文化の導入を掲げて創業し、翌年に表通り(中央通り)に面した通三丁目(現在の日本橋二丁目)で日本橋店を開業。和洋の書籍のみならず舶来の雑貨も幅広く揃え、当時の知識人たちはこぞって通った。建物こそ土蔵造からビルへと姿を変えたが、いまも創業時と同じ場所で営業を続けている。

 

花袋は、明治32年(1899)から本町三丁目(現在の日本橋本町三丁目付近)の博文館という出版社に勤めていた。そこから日本橋を渡って丸善まで足繁く通い、その書棚でさまざまな海外文学に出会った。

 

教育書のなかにフローベールの『感情教育』を発見したり、地理書の棚からドストエフスキーの短編集を掘り出したりしたこと。取り寄せていたモーパッサンの小説が届いたとの知らせを受け、土蔵造の建物と洋館とが入り混じる不調和な大通りを五月雨に濡れながら歩いて行ったときのこと。読んでいるこちらまで興奮が伝わってくるエピソードを綴ったのち、こう締めくくる。

 

〈ナチュラリズムでも、デカタンでも、人道主義でも、またネオ・ロマンチシズムでも、すべてその一書肆(しょし。本屋のこと=筆者註)の門戸から入って来たということは、今考えて見ると、不思議に思われた。そういう形からいっても、その日本橋の大通りは私に深い縁故を持っているものといって差支(さしつかえ)なかった。〉

 

〈日本橋の大通りは私に深い縁故を持っている〉と感慨を込めているのは、大通りに幼少の記憶も重なるからだろう。遡ること明治14年(1881)、花袋はわずか9歳で郷里の栃木を出て、京橋区南伝馬町にあった農学書を専門とする有隣堂書店で1年ほど丁稚奉公をしていた。得意先をまわるため、本を背負って京橋や日本橋を渡る日々。ときには、必要な書籍の名が記された帳面を持って、表通りの書店を1軒、1軒訪ねて歩いたこともあったという。

 

日本橋の大通りと花袋を深く結びつけたもの。それは、幼い頃も大人になってからも本屋だった。いまの景色からは想像しがたいが、かつてこの大通りには本屋が集まっていたのである。この地と本との歴史を、江戸に登場したある1軒の本屋に焦点を当てて紐解いていこう。

  • 明治42年(1909)、土蔵造から鉄骨造の洋館へと姿を変えた丸善。この2階が洋書売り場だった(建築学会編『明治大正建築写真聚覧』1936年/提供・国立国会図書館デジタルコレクション)

日本橋に集まってきた本屋という新商売

明治33年(1900)刊行の『東京営業便覧』(博報堂)を見ると、通一丁目〜四丁目までの大通りの両側に本屋は12軒もある。ほかに書籍用の木版画商や紙問屋など、書籍関連の店もいくつか見いだせる。通一丁目〜四丁目までというと、現在の日本橋から中央通りと八重洲通りが交わる日本橋三丁目交差点までを指すから、歩いても10分足らずの距離である。なぜ、この場所に本屋が集まってきたのだろうか。その疑問を探る前に、まずは本屋の歴史について手短にふれておく。

 

広く人々に向けて本を提供する本屋が登場するのは、近世になってからだ。中世まで出版は権力者や寺社などのかぎられた層が手がけ、読者も限定的だった。太平の世が訪れ、人々の知的欲求の高まりにあわせ、商業出版が勃興した。と同時に、それまでの木活字版を使った印刷から、大量に刷ることができる一枚板を使った整版印刷へと技術変革が起きる。

 

本屋というと、いまは一般に新刊を商品として販売する書店を指す。だが、江戸時代の本屋は新刊のみならず、古本も揃え、客の要望に応えていた。そして何よりいまと違うのは、本屋自身が本の企画から制作、販売、板木の管理まで本にまつわるすべてにかかわっていたことだ。本屋は、出版社であり、取次であり、書店でもあった。もちろんその周辺には出版を手がけず、仲間の本屋から本を仕入れて販売するだけの「売子(うりこ)」「世利子(せりこ)」や、貸本屋などの業者も存在していた。

 

本屋は書肆、書林、物之本屋、書物屋、書物問屋などさまざまな名前で呼ばれた。そうした本屋は主に仏書や辞書、学問書など硬い本を扱っていたが、江戸時代中期から児童向けの絵本や、挿絵の入った読みものなど、いわゆる「草双紙(くさぞうし)」と呼ばれる庶民的な娯楽本が増えると、それらを扱う店は草紙屋、浄瑠璃本屋、地本問屋(じほんどいや)などといって区別された。

 

商業出版が最初に盛んになったのは、京都だった。一足遅れて明暦年間(1655〜1658)頃に江戸でも商業出版が活気づくが、その中心となったのは京都や大坂から進出してきた上方の本屋だった。そしてその多くが、京坂につながる東海道の始点である日本橋界隈に拠点を定めた。だが、元禄年間(1688〜1704)の頃になると江戸発の新興の本屋が力をつけてくる。その先駆けとなったのが、通一丁目に店を構え、江戸を代表する本屋へと成長した須原屋茂兵衛(すはらやもへえ)である。

  • 須原屋は長く通一丁目西側に店を構えていたが、明治33年(1900)刊行の『東京営業便覧』では通二丁目東側(現在の日本橋二丁目の東京日本橋タワー付近)に移転している

江戸発の本屋「須原屋」の台頭

初代須原屋茂兵衛(北畠宗元)は、万治年間(1658〜1661)に紀伊国有田郡栖原(すはら)村(現在の和歌山県有田郡湯浅町栖原)から江戸に上り、日本橋南に本屋を開いたと伝えられている。須原屋の名は出身地に由来し、家号を千鐘房(せんしょうぼう)といった。元禄2年(1689)刊行の『江戸惣鹿子』では、左内町横町(現在の江戸橋一丁目交差点付近)の書物屋として名を連ねているが、元禄末までに通一丁目へ進出を果たしたとされる。なお、須原屋の歴史については今田洋三著『江戸の本屋さん』に負うところが大きいことを最初に記しておく。

 

須原屋が通一丁目に店を構えた頃、京坂、江戸の三都では、「本屋仲間」という同業者組合の前身である自主的な組織「講」が生まれた。江戸で講がいつ結成されたかは定かではないが、元禄の終わりには「通町組」と「中町組」という2つの組織が存在していたといわれている。

 

「講」が組織されたのは、商業出版の進展にともない、類板(既刊本を真似たり、一部改変したりしたもの)や重板(既刊本と同じものを別の本屋が無断で出版すること)が横行し、その問題を解決するためだった。享保6年(1721)に幕府が仲間を公認すると正式に本屋仲間が発足し、翌年には以後、出版の基本ルールとなる出版条目も発令された。

 

本屋仲間の権利を簡単に説明すると、新たに板木を彫って出版すること(開板)ができ、全国に流通させることができた。開板にあたっては奉行所の許可を得る必要があり、その前段階に本屋仲間から選ばれた行事がチェックを行う。晴れて出版となれば、出版した本屋がその本の出版権(板株)を持ち、板木を売らないかぎりはその権利を保有できるという仕組みだった。本屋を介さずに出版される「私家版」も少なからずあったが、流通網にのせるためには本屋を通す必要があった。

  • 通一丁目にあたる現在の日本橋一丁目の中央通り(右奥の首都高の下が日本橋)。須原屋は、左手前のビルのあたりにあった

話をもとに戻すと、通町組には日本橋の表通りに面した店が多く、中通組には万町、青物町(ともに現在の日本橋一丁目付近)を拠点とする店が中心だった(上里春生著『江戸書籍商史』)。通町組、中通組ともに上方から出店した者が行事を務めており、後発の江戸勢は不利な状況にあった。そのことが須原屋茂兵衛をして、通一丁目の出店へと駆り立てたのだろうか。というのも須原屋は、もともと左内町横町に店があったためか、中通組に所属していた。推測するに、表通りに面した通町組と、そこからやや離れた中通組では、通町組のほうが格上と見られていた可能性はおおいにある。だとすれば初代茂兵衛が、なんとしてでも通一丁目という一等地に店を構えたいと切望したとしても不思議ではない。

 

上方勢への対抗は、のちに通町組脱退という形で表面化する。享保12年(1727)、須原屋は通町組をほか8軒とともに脱退し、江戸勢を中心とした「南組」を新たに結成。須原屋は以後、長きにわたって南組の行事を務めることになる。さらに寛延3年(1750)には類板の扱いを巡って南組と通町・中通組が対立した。結局、南組の言い分は通らなかったが、通町・中通組のなかには南組に加担する店もあり、今田洋三は先述の『江戸の本屋さん』で、この抗争をきっかけに南組が急速に発展したと述べている。江戸の本屋が上方系統の本屋に対抗できるくらい力をつけてきたこと、またそれによる両者の競争が、市場の活性化という方向に働いたのである。

武士の名簿録を武器に急成長

南組結成の際に、中心となったとされるのが三代目須原屋茂兵衛(慈厳)である。なお、二代目については記録がなく、急逝されたと考えられている。初代の跡を継いだ三代目慈厳は『武鑑』の板株を熱心に買い集め、「須原屋といえば武鑑」という呼び声を広めた人物とされる。

 

『武鑑』とは、役職づきの武士の名前、紋所、石高、江戸の屋敷地などをまとめた武士名鑑だ。江戸住まいの武士が社交するときの基礎資料として、また出入り商人が取引上の情報源として使われたほか、下級武士の江戸土産にもなった。大名行列の道具なども絵入りで掲載されていて、いま眺めても楽しいつくりなので、当時の人々にとってはなおさらだっただろう。

 

須原屋は初代茂兵衛の頃から『武鑑』の刊行に着手し、最初に手がけたのは元禄2年(1689)刊行の『太平武鑑』だった。もとはいろんな本屋が『武鑑』を発行していたが、そのうち須原屋と京都の出雲寺が『武鑑』の二大板元になる。なお両家は宝暦9年(1759)以降、100年以上にわたって出版競争を繰り広げるが、その顛末については藤實久美子著『江戸の武家名鑑』にくわしい。

  • 慶応3年(1863)に須原屋から刊行された『袖珍(しゅうちん)武鑑』は『武鑑』のいわばポケット版。「白無垢を召したび茂兵衛袖を綴(とじ)」(武士が役づきになって白無垢を着るたび『袖珍武鑑』が改定されるという意)と、川柳に詠まれるほどヒットした(提供・国立国会図書館デジタルコレクション)

須原屋と武鑑の結びつきを詠んだ川柳は数多く残されているが、その1つに「吉原ハ重三茂兵衛ハ丸の内」というのがある。

 

「吉原ハ重三」とは、吉原から商いをスタートさせ、吉原遊郭のガイド本『吉原細見』を発行して評判を得た地本問屋の蔦屋重三郎のこと。喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵や山東京伝の洒落本なども手がけ、話題をさらった。「蔦屋書店」の命名の由来になっていることからも、その名を知っている人は多いかもしれない。一方、「茂兵衛ハ丸の内」とは、『武鑑』の読者が丸の内に住む大名や旗本だったことを意味している。江戸の二大本屋をして、一方が吉原の案内書ならば、もう一方は武家の案内書を発行しているという、両家の対照性を端的に詠み込んだ句だ。

 

須原屋は『武鑑』のほか、江戸絵図や漢学教科書類など公共性の高い本を多く手がけていた。初代が時流を問わない手堅いコンテンツに目をつけ、一等地に進出して世間の信頼を勝ち取り、後続の者がその事業を継いで仕掛ける。かくして須原屋は、日本橋一丁目の場所で明治37年(1904)に廃業するまで九代にわたり、200年以上もの歴史を刻んだのである。(後篇に続く

参考文献:
西山松之助ほか編『江戸町人の研究 〈第3巻〉』吉川弘文館、1973年
今田洋三『江戸の本屋さん』NHKブックス、1977年
彌吉光長『江戸時代の出版と人 彌吉光長著作集3 』日外アソシエーツ、1980年
花咲一男『川柳江戸名物図絵』三樹書房、1994年
芥川 龍之介ほか『大東京繁盛記 下町篇』平凡社ライブラリー、1998年
田山花袋『東京の三十年』講談社文芸文庫、1998年
藤實 久美子『江戸の武家名鑑 武鑑と出版競争』吉川弘文館、2008年
橋口侯之介『江戸の本屋と本づくり 【続】和本入門』平凡社ライブラリー、2011年
上里春生『江戸書籍商史』名著刊行会、2012年(初版はタイムス社、1930年)

澁川祐子
ライター/編集者

食と工芸を中心に編集、執筆。著書に『オムライスの秘密 メロンパンの謎ー人気メニュー誕生ものがたり』(新潮文庫)、編集・構成した書籍に山本教行著『暮らしを手づくりするー鳥取・岩井窯のうつわと日々』(スタンド・ブックス)、山本彩香著『にちにいましーちょっといい明日をつくる琉球料理と沖縄の言葉』(文藝春秋)など。

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