江戸幕府が開かれた慶長八年(一六〇三)、徳川家康は神田山などを掘り崩した土で日比谷入江を埋め立てて土地を造成し、上水路や幹線道路を整備するなど大規模なまちづくりにとりかかった。日本橋川に日本橋が架けられたのも同時期である。翌年にはここに一里塚が置かれ、日本橋は五街道の起点となった。日本橋と京橋(日本橋とほぼ同じ時期に完成)の二つの橋をつなぐ通り(現在の中央通り)は、京都へとつながる東海道の出発点として、また江戸への玄関口として大いに賑わう。
この二つの橋は、幕府が造り修復費用も受け持つ、数少ない御普請橋で(江戸城の見附橋のほか、日本橋・京橋・新橋の三つだけ)、欄干に「擬宝珠」が掲げられていた。擬宝珠の葱坊主のような形は仏教に由来し、雨で橋が腐らないよう、柱の上に被せる役目があった。中でも日本橋が一番権威を持ち、絵師が擬宝珠を描けば、誰もが日本橋と思うほどであった。落語家の回顧録にも、「擬宝珠の間(日本橋と京橋の間)に出演しなければ、一人前ではない」という旨の記載がある。大店にとっても、日本橋と京橋の間への出店(俗称に「擬宝珠内」という表現もある)は名誉であった。
寛永十二年(一六三五)ころにはまちの基盤もほぼ完成。日本橋には魚市場、京橋には青物市場が開かれ、商店街も本町、大伝馬町、横山町、馬喰町から、南の日本橋、京橋、銀座、新橋へと広がっていった。その背景には、参勤交代により江戸藩邸に多くの藩士たちが居住するようになったことがある。彼らの生活必要品を供給するため、商人や職人がこの地に集まったのである。蚊帳などの販売業として近江で創業した西川は、慶長二十・元和元年(一六一五)に日本橋通一丁目に支店を出した。京都の材木商だった白木屋は寛文二年(一六六二)に日本橋通二丁目に店を構え(後に日本橋通一丁目に移転)、呉服商に商売替えをして大成功する(跡地には現在、コレド日本橋が建つ)。元禄二年(一六八九)に和歌山から出て来た漆器の黒江屋、正徳二年(一七一二)に伊勢出身者が醸造醤油の店舗を設けた国分など、他にも関西に縁のある商人がこの地域に大店を構え、江戸創業の商店も次々と起こり、繁華街として発展していく。
江戸の人口は、享保年間(一七一六〜一七三六)には百万人に達していたとされる。この膨大な数の人々が必要とする物資の輸送に海上・河川の運輸を利用するため、日本橋川、京橋川、三十間堀、八丁堀など多くの河川や運河が造られ、川沿いには荷揚げ場となる河岸が発達した。こうして江戸時代後期には、河岸に米穀類、塩物・乾物類、薪炭、竹木類などを扱う倉庫や問屋が建ち並ぶ独特な風景が作り出されていた。
「婦人泊まり客之図」(画・喜多川歌麿)。現在の日本橋西川が、江戸時代に販売した「萌黄色の蚊帳」が、江戸で大評判に。歌麿の浮世絵にも、蚊帳で休む夫人の様子が描かれている。現在も販売されているロングセラー商品だ。(「西川400』年史より転載」)
明治に入ると、銀行業、金融業、保険業、運送業など日本の近代化を牽引する新たな産業が台頭し、日本橋川沿いに進出する。河岸沿いの建物は土蔵から煉瓦造りへと様相を変え、江戸橋詰めの四日市河岸には三菱の七ツ蔵が建ち、日本橋の橋詰には旧帝国製麻の本社ビルが大正元年に竣工した。十二年の関東大震災では日本橋地域のほぼ全域と京橋地域の九割が焼失。翌年からの帝都復興事業により大規模な区画整理や道路整備が進んだ。昭和通りが造られたのもこのときである。一方で魚河岸が築地に移転し、河岸の役割は衰退していった。
やがて戦時下となり、昭和二十年三月九日夜半から十日未明にかけての東京大空襲で日本橋区・京橋区は壊滅的被害を受けるが、復興は速かった。二十二年には東京が二十二区(後に二十三区)となり日本橋区と京橋区が合併して中央区が誕生。三十年代に入るとビル建設や、三十九年の東京オリンピック開催に向けての河川の埋め立て、高速道路や地下鉄の建設が急激に進んだ。中央区が、江戸時代から現在に至るまで、日本の経済・文化・情報発信の中心として、時代の最先端を担う地域であることに変わりはない。
「江戸名所百景」第四十四景「日本橋通一丁目略画」(画・歌川広重)
右手に白木屋呉服店が見える。大道芸人や三味線を持った女太夫などが歩く姿が描かれ、華やかな通りの雰囲気が伝わる。
TEXT:浅原須美
東京人2016年7月増刊より転載。