Vol.9 割烹 嶋村

2016.09.28

江戸城西ノ丸の御用仕出しを務めた味を継承し続ける。

東京駅八重洲口からほど近い路地に、下町風情の割烹がある。嘉永三(1850)年、日本橋檜物町で仕出し店として創業した「嶋村」である。場所柄、武家屋敷や大店に料理の味が認められ、「上がりの八百善、仕出しの嶋村」と呼ばれる人気店となり、やがて江戸城西ノ丸の御用仕出しを務めることになった。時の将軍は、十二代徳川家慶である。

 

大政奉還後、徳川家が駿府に移った際、初代嶋村善吉と二代目は、徳川家の番頭役として共に東京を離れた。「嶋村」は板場を任されていた加藤が継ぐことになり、「嶋村」の暖簾と「善吉」の名前を譲られた。現在の社長である加藤一男さんは、八代目にあたる。

 

店に残る江戸時代の「大江戸料理番付」では、「嶋村」は勧進元という最高ランクに位置づけられている。明治以降も伊藤博文や井上馨、山県有朋といった元勲や、久保田万太郎、獅子文六など数多くの文士が通った。若かりし永井荷風は日記に「早く嶋村で昼飯が食えるようになりたい」と書き残している。

  • 1859(安政6)年の大江戸料理番付。中央下に「檜物町嶋村」の文字が見える

  • 店主の加藤一男さん<中央>、次男の仁さん<右>、長女の理亜さん<左>。

まちを活性化する一環で土日限定「幕末会席」を提供。

「この界隈は檜物町と呼ばれた花柳界で、芸者衆がたくさんおりました。近所には有名な常磐津の師匠や小唄の師匠が住んでいました。私の父親で七代目の加藤善男も清元ではずいぶん活躍しました。料理屋と清元流の太夫として二足のわらじを履いていたんです」と、一男さんは振り返る。
七代目は太夫として相当の売れっ子で、今のコレド日本橋の場所にあった白木屋の劇場や演舞場などで舞踊の会があると、地方として出演し、合間に店に戻って仕込みをする、というような生活だったという。
「自分の母親について語るのは気が引けますが、七代目の妻の鈴子は粋筋の器量好しで、すべてに精通した人でした。女将としても充分なものをもって父を支えておりました。三人の姉たちも店を手伝い、これが評判になってお客様にお引き立ていただきました」

 

一男さんは卒業後、店を継ぐ決意をもって、大阪の老舗料亭で5年、東京の他店で数年修業をしてから「嶋村」に戻った。面倒見のいい人柄で、PTA会長を長年務め、また、日本橋の六町会と八重洲の三町会が所属する「日本橋六之部連合青年部」(通称、日八会)の会長として長年、街の活性化に努力してきた。

 

平成元(1989)年頃からは、週末の日本橋に人を呼ぼうと、土曜日限定の「幕末会席」を提供している。
「平日はビジネスマンで賑わう日本橋界隈ですが、土日は人通りが少なくなります。日八会の仲間で街の活性化を考えていくうちに、うちも何かしなくちゃいけないと思い、創業当時から代々伝わってきた品書きから特に人気のあったうずら椀や鯛の兜煮といった料理を選び、会席風に仕立て直しました。ほとんど儲けのない値段で安くご提供しており、まち歩きをされる方や女子会などでも好評です」
江戸時代からの料理法で手間隙かけて作られた料理は、思いのほかやさしい味でボリュームもある。

 

現在、日本橋界隈では街のそこかしこで再開発が盛んだ。近い将来、「嶋村」も高層ビルの大きな区画に入ることが予想される。そんな中でも、「嶋村」の味と店を継承させていくことが一男さんの課題である。
「料理屋の経営は、周囲の方が思われるよりも難しい。何が一番大事かというと、人の心を思いやることです。お客様が望んでいることを察し、その上でスタッフの立場にもなってみる。『やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ』という、山本五十六の言葉を胸に刻んで日々行動しています」

 

そんな一男さんを、次男の仁さんと長女の理亜さんが支える。仁さんは大阪とオーストラリアでの修業を終えて「嶋村」の板場に入り、伝統の味を日々追求している。理亜さんはあらゆる面から看板として店に立ち、お客様やスタッフへの心配りにも余念がない。
「『一升枡には一升しか入らない、だから構えを大きくせずに、その分手を尽くしていい料理を作れ』という六代目の竹三郎が残した言葉を家訓に、九代目にも背伸びをせずにがんばってもらいたい」と、一男さんは次世代にエールを送る。

  • 土曜限定の「幕末会席」は3800円(税別)

  • 入口の大きい提灯が目印

割烹 嶋村
住所: 中央区八重洲1-8-6
TEL: 03-3271-9963
営業時間: 11時30分〜14時 16時30分〜22時30分(LO22時)
定休日: 日曜・祝日
WEBサイト: http://r.gnavi.co.jp/g202500/

 

TEXT:金丸裕子、 PHOTOGRAPH:渡邉茂樹
東京人2016年7月増刊より転載