【昭和100年記念座談会 林家木久扇師匠×町会長・府川利幸さん】昭和12年生まれのふたりが語る日本橋と戦争の記憶

2026.01.05

2025年は、昭和が始まって100年という節目の年になります。長い年月が流れた今も、日本橋・八重洲のまちは、古き良き情緒を残しながら、多くの人に愛され続けています。今回開催された座談会では、昭和12年、日本橋生まれのおふたり、林家木久扇師匠と八重洲一丁目中町会会長の府川利幸さんに戦前から現在までの日本橋を振り返っていただきました。生家の商い、芸事、人間関係、祭りなど、「下町らしさ」とは何か、そして幼いふたりの記憶に残る戦争のことなど、後世に伝えたい貴重なお話が満載です。

\今回話を聞いたのは/

  • 落語家

    林家木久扇さん

    昭和12年、日本橋・久松町で生まれる。食品会社、漫画家・清水崑の書生を経て、1960年に3代目桂三木助に入門。没後、八代目林家正蔵(のちの彦六)に入門し、林家木久蔵となる。1979年に真打ち昇進。2007年に落語会史上初のW親子襲名により、林家木久扇襲名。2024年3月に55年間レギュラー出演した「笑点」を卒業。現在も精力的に活動中。

  • 八重洲一丁目中町会 会長

    府川利幸さん

    昭和12年、日本橋・呉服橋で生まれる。平成27年まで老舗鰻屋「星重(ほしじゅう)」を経営。長年にわたり、八重洲一丁目中町会、日本橋六之部連合町会の要職を務め、日本橋・八重洲の様々な催しの中心として活動してきた。

幼稚園のころの木久扇師匠は祖母に連れられて明治座で観劇

林家木久扇師匠は、日本橋の久松町に生まれ。生家は雑貨問屋で、4人兄弟の長男だったそうです。幼少期に久松幼稚園に通っていたころは、おばあさまと一緒によくお芝居を見に行っていたと振り返ります。

「おばあちゃんは芝居が大好きで、よく明治座に連れて行ってくれました。昼の部を見るので、幼稚園に迎えに来るのが午前10時なんです。当時の先生も粋で、『おばあちゃんが迎えに来たから帰っていいわよ』って送り出してくれました」(木久扇師匠)

 

当時の明治座では、歌舞伎だけでなく、新国劇や大衆劇、大衆演芸など、さまざまな演目が上演されていたそうです。

 

「おばあちゃんが豪勢な三段弁当を注文してくれて、それが嬉しくて。演目では『金色夜叉』や『弁慶と義経』が印象に残っています。『一本刀土俵入』の最後のシーンの立ち回りは、子どもが見ても面白くて、興味深く観ていました」(木久扇師匠)

 

また、明治座の看板絵は、木久扇師匠を絵の世界にも導きました。そのきっかけを作ったのも、やはりおばあさまだったそうです。

 

「芝居が入れ替わるときは、劇場の看板絵が下ろしてあるんです。ものすごく大きくて綺麗なんですよ。家で絵といえば掛け軸くらいしかない時代でしたから、衝撃でしたね。商売柄、反故紙はたくさんあって、記憶を頼りにクレヨンで看板絵を描いていました。それをおばあちゃんに見せると褒めてくれて、ご褒美にかりんとうやべっこう飴などのお菓子をくれるんです。近所のおばあちゃんにも見せに行っておせんべいをもらったりしていました。絵を描くと原稿料がもらえるんだということをそのときに知りました(笑)」(木久扇師匠)

 

「そうやって絵がうまくなった」と笑う木久扇師匠。当時は、お芝居の内容よりも絵の興味の方が強かったと振り返ります。現在画家としても活躍する木久扇師匠のルーツは明治座の看板絵だったのですね。

 

また、お母様が忙しかったため、夕食は毎日のように外食をしていたそう。「お風呂から出ると、お父さんが人形町に連れて行ってくれて。お寿司屋さんによく行ったことが記憶に残っています」と懐かしみました。

疎開先へ向かう途中の忘れられない恐ろしい体験や戦時中の記憶

戦争が激しくなるころ、木久扇師匠も府川さんも、それぞれ疎開を経験します。木久扇師匠は、叔父さんが勤めていた会社がある青森・八戸へ縁故疎開。府川さんも縁故疎開で茨城の水海道(今の常総市)に移ったそうです。

 

木久扇師匠は、疎開先へ向かう途中の恐ろしい体験を語ってくれました。

 

「列車が仙台の先で急に止まったんです。『敵機来襲、避難してください』と言われ、列車の下に乗客みんなで隠れました。飛行機が近づいた音が聞こえたと思ったら、次の瞬間、ダダダダッと機関銃の音がしました。おそらく列車を狙ったんでしょう。当時私は小学1年生でしたが、その音は強く記憶に残っています」(木久扇師匠)

 

疎開先では言葉の違いからなかなか馴染めなかったそうです。しかし、「絵が外交になった」と話します。

 

「私は江戸っ子だから青森の方言を使わず江戸言葉で通していたら、生意気だといじめられましたね。ランドセルに石を詰められたり、トイレで突き飛ばされたり。それで、おばあちゃんに泣いて訴えたら『あんたは絵が上手いんだから、潜水艦とか戦車の絵を描いて、あげてみな』と言われたんです。それで、うまく描いていじめっ子に渡したら、『絵が上手いな』って尊敬されて一目置かれるようになりました」(木久扇師匠)

 

府川さんも疎開先へ向かう常磐線の車内で、機銃掃射に遭ったそうです。また、戦況が悪化すると、学校の校庭も変わっていったと振り返ります。

「食料がないから、校庭がだんだん芋畑になっていきました。さらに、校庭が暗幕で覆われて入れなくなって、そこで大工さんが木の飛行機を作っているんです。上から見ると本物に見える、偽の飛行機ですね。それが土浦の航空隊に運ばれていくのを目撃しました。子ども心に、日本は戦争に負けるだろうと思っていましたね」(府川さん)

 

木久扇さんの疎開先の小学校にも、同じ飛行機があったと言います。

 

「私が通っていた柏崎小学校の校庭にも、木製の飛行機が置いてありました。まちに爆弾を落とさせないためのオトリでしょう。無駄に爆弾を使わせる算段だったようです。よくできていて、上から見ると本物そっくりでした」(木久扇師匠)

 

戦況の厳しさを、子ども心に敏感に感じ取っていたようです。

終戦で全てを失い、助け合って乗り越えた戦後の混乱期

木久扇師匠が疎開する前、徐々に戦争が激しくなっていったころの印象的な体験も語ってくれました。

 

「父が警防団の団長を務めていたため、夜、家にいるのは私とおばあちゃんとお母さんと妹2人だけでした。夜はいつもラジオを付けて、今日は空襲があるかしら?と、正座して聞いていました。逃げる準備はしてあって、おばあちゃんは仏壇のご先祖様を風呂敷で包んでいましたし、私たちは水筒と袋を背負って、運動靴を後ろに置いています。でも、ラジオの声は聞き取りにくくて、空襲があるとわかったときには、もう遅い。気づくともう敵機は上空にいて、サイレンが鳴っていました」(木久扇師匠)

 

おばあさまの手を引いて、家族で防空壕へ駆け込んだ木久扇師匠。そのとき、忘れられない光景を目にしたそうです。

 

「防空壕の中で、近所のおじさんが『夕焼け小焼け』を一生懸命歌っていました。変な人だと思ったら、みんなの気持ちが張り詰めているのを和ませようとしていたんですね。あの光景は今でも覚えています」(木久扇師匠)

 

府川さんも「最新の情報源はラジオだった」と言い、1945年8月15日の光景を思い出します。

「その日は暑い盛りで、みんな外に出て、ラジオのボリュームを上げた近所の家に集まっていました。陛下のお言葉が流れて、みんなが頭を下げている。子どもながらに『日本が負けたんだ』と理解しました」(府川さん)

 

東京大空襲で自宅は焼け落ち、終戦後、木久扇師匠の家族は西荻窪に移り、小売商として再出発したそうです。しかし、戦災で何もかも失った父は働く意欲をなくし、木久扇師匠が小学4年生のときに両親は離婚しました。

 

「そのころから、新聞配達、納豆売り、屑鉄拾いなどをやって母を助けていました。新聞配達は月1,500円。お蕎麦が1杯17円の時代ですから、子供としては上等な稼ぎでした。冬の早朝は寒くて、靴に唐辛子を入れて走ったものです。野犬に追われるのが怖くて、線路を走って逃げたりもしました」(木久扇師匠)

 

府川さんは、戦後の日本橋の風景をこう語ります。

 

「暖房がないから、みんな手はあかぎれだらけ。当時、蕎麦屋さんから蕎麦湯をもらって湯たんぽに入れると暖かいというので、日本橋やぶ久にそば湯をもらいに来ている人がいたのを覚えています。それから、西河岸橋のたもとに小さな風呂を作ってくれた人がいたんですよ。焼け野原になって何もかもなくなっていますから、たくさんの人がその風呂に助けられたと思います」(府川さん)

 

この共同浴場を作ったのは、代々日本橋で建設業を営む鹿島組の鳶頭・鹿島仁太郎さんだったそう。戦後の日本橋は、地域の人の知恵と支え合いで暮らしを取り戻していったようです。

これからますます発展していく日本橋への思い

画家でもある木久扇師匠には、生まれ故郷である日本橋を描いた大作があります。また、日本橋の情報を発信しているタウン誌『月刊日本橋』の表紙絵の連載を2年間担当していました。生まれ故郷・日本橋を描くことについて、こう話します。

 

「日本橋を描くときには、昔の浮世絵などを参考にしています。浮世絵に出てくる人物の動きや衣服、商売道具などから着想を得て、江戸時代から続く日本橋の賑わいとまちの息づかいを表現したいんです」(木久扇師匠)

 

その描線にはきっと、幼少期から観てきた芝居の空気や、落語の世界の人間関係などが、さりげなくにじんでいるのでしょう。そして木久扇師匠は、長年温めてきた思いを語りました。

 

「私の絵を動かして、アニメを作りたいんです。3〜5分ぐらいの長さで、できればNHKの子ども番組などで放送できたらいいですね」(木久扇師匠)

府川さんは、日本橋への願いを語りました。

 

「毎年秋には、日本橋プラザの広場で『日八会 秋のお江戸まつり』を開催しています。地元の縁日を復活させようと考えて始めたお祭りで、30年以上続いています。一方で、日本橋は今、大きな再開発が5つも進んでいます。まちをよくしようと尽力している方々がたくさんいますから、これからさらにどう発展していくのか楽しみです。これからも日本橋が栄えていくことを願っています」(府川さん)

 

おふたりのお話をお聞きしていると、当時の日本橋の雰囲気がありありと伝わってきます。助け合い、工夫し、暮らしを守ってきた日本橋は、これからの時代もきっと、その精神を受け継いでいくでしょう。

 

取材・文/梶塚美帆(ミアキス)

写真/島村緑