【昭和100年記念座談会】戦前から現在まで、日本橋はどう変わった? 昭和の日本橋を知る3人がつなぐ次の時代への思い

2026.01.05

2025年は、昭和が始まって100年という節目の年になります。長い年月が流れた今も、日本橋・八重洲のまちは、古き良き情緒を残しながら、多くの人に愛され続けています。今回は、昭和の日本橋・八重洲を知り尽くした3人にお集まりいただき、戦前から現在までの変化や暮らしを振り返っていただく座談会を開催。懐かしい記憶や当時の風景、とっておきの秘話なども交えながら、お話を伺いました。

\今回話を聞いたのは/

  • 八重洲一丁目中町会 会長 

    府川利幸さん

    昭和12年、日本橋・呉服橋で生まれる。平成27年まで老舗鰻屋「星重(ほしじゅう)」を経営。長年にわたり、八重洲一丁目中町会、日本橋六之部連合町会の要職を務め、日本橋・八重洲の様々な催しの中心として活動してきた。

  • 日本橋ゆかり二代目

    野永喜一郎さん

    昭和10年創業の「日本橋ゆかり」を継ぎ、宮内庁にも出入りを許された老舗料理店の二代目として店を守る。戦火による店の再建など、多くの困難を経験してきた。

  • 𠮷野鮨本店五代目 

    𠮷野正敏さん

    明治12年創業の老舗鮨店「𠮷野鮨」の五代目。「トロ握り発祥の店」としても知られる。かつては「日本橋ゆかり」と軒を連ねていた時期もあった。

大らかだった昭和の時代、子どもの遊び場はオフィスビルやデパートの中

「激動の昭和」と呼ばれるように、昭和には大きな出来事がいくつもありました。日本橋もまた、商い、文化、人々の暮らしが重なり合い、その時代を生き抜いてきたまちです。

 

府川利幸さんは、昭和12年に日本橋で生まれました。戦前の日本橋を「縁日が楽しみだった」と振り返ります。

 

「日本橋西河岸の地蔵寺では、毎月4日、14日、24日に縁日があったんです。当時はテレビもありませんでしたから、縁日は本当に楽しみでした。仲通りから城東小学校の方まで、道の両側にずっと露店が続いて、大規模なものでした」(府川さん)

しかし、戦争が始まり、府川さんは疎開で日本橋を離れます。

 

「茨城の水海道(今の常総市)に疎開しました。東京から60kmほど離れていましたが、東京の空が赤く焼けているのが見えたんです。高い建物がなかった時代でしたから。小学1年生でしたが、あの光景は今でも覚えています」(府川さん)

 

一方、昭和17年生まれの野永さんは、戦中の記憶はなく、3歳の頃に終戦を迎えたそうです。府川さんと野永さんは、当時の日本橋の大らかさを思い返しながら、「子どもの遊び場はデパートだった」と語ります。

 

「高島屋の地下で遊んだり、2階にあった骨董屋でかくれんぼしたりしました。店内は今よりずっと静かで、ガラガラでしたからね。白木屋でも遊びましたし、街のデパートは子どもにとって格好の遊び場でした」(野永さん)

 

「私も日曜日に雨が降ったら、デパートで遊んでいましたよ。チラシで飛行機を作って、三越の6階から飛ばしたこともあります。あとは、東急百貨店の地下の食料品売場で買い物をすると、風船がもらえたんです。だけどもらってすぐに手を離して飛んでいってしまった風船が天井のところに浮かんでて、ガキ大将だった我々は、棒を持って上のほうの階まで行き、飛ばされた風船を取っていました。外で遊ぶときは、皇居広場で野球をしていましたね」(府川さん)

 

府川さんと野永さんは、ともに城東小学校の出身。1学年2クラスほどで、商売を営む家の子どもが多かったそうです。

当時の大人たちの様子については、こう話します。

 

「娯楽が少なかったので、町会対抗で演芸会を開いていました。手品、素踊り、長唄、小唄などをやっていたと記憶しています」(府川さん)

 

1970〜80年代には高度経済成長期を迎え、世の中が急速に豊かになっていきます。そのころに子ども時代を過ごしていたのが、𠮷野さんです。「府川さんや野永さんが過ごした子ども時代のようなおおらかさが、僕の子ども時代にも残っていた」と、懐かしみます。

 

「僕らはまち全体を使ってケイドロ(警察と泥棒に分かれて行う鬼ごっこ)をやり、ビルの中にも入り込みました。DICビルには裏から入って、非常階段を上がったりして……当時はそれが許された時代だったんでしょうね。外遊びは、僕らの時代になると広場があまりなかったので、車1台ほどのスペースがあればボール遊びをしていました。ビルの上階にボールを当てるなど、工夫して楽しんでいました」(𠮷野さん)

 

都会っ子ならではの幼少期の過ごし方をしていたようです。

新しい良いものは取り入れ、職人の技や心意気は継承していく

今回お話を伺った3人は、いずれも飲食業を営んでいます。日本がどんどん豊かになっていくなかで、食のスタイルや価値観の変化も肌で感じてきたといいます。

 

野永さんは、割烹のあり方が変わっていった時代をこう振り返ります。

 

「我々の時代に、日本橋にカウンター割烹ができました。それまで割烹といえば、後ろで作ったものをお客さんに出すのが普通でした。それが、お鮨屋さんのようにカウンターで作るスタイルに変わっていった。大阪の浜作さんが銀座の店で取り入れ、そこから日本橋にも広がったんだと思います」(野永さん)

 

カウンター割烹のような新しいスタイルの出現は、食べる側にとって新しい楽しみが加わる大きな変化でした。「関西からきたカウンター割烹に刺激されたのは、とてもいいこと」と野永さんは語ります。

豊かな時代になる一方で、職人の技や心意気といった「根っこの部分」の継承は、決して簡単ではないようです。𠮷野さんは、難しさを感じつつも「自分の世代が頑張って継承していきたい」と意気込みます。

 

「僕らが若い頃は、上の人を見て学び、怒られることもありました。でも、理不尽に怒られたとしても、時間が経つと怒られた理由がわかってくる。そうやって先輩を尊敬する気持ちも育っていったのだと思います。そして、職人技を継承しながら、そこに新しいものを見出していったのが僕たちの世代。今の世の中の風潮を意識しつつ、僕らも次の時代に伝えていきたいと思っています」(𠮷野さん)

 

怒られながらも踏ん張ってこられたのは、上の人との絆がしっかりあったからだと𠮷野さんは振り返ります。そして「今は人間関係が希薄になりがちだけれど、この地域は少しめんどくさいぐらいに濃密な人間関係があるんです(笑)」とのこと。

野永さんも「修行時代は先輩がやることを見て覚え、従わなければいけなかった」と振り返りながら、「今は見て覚えるがあまり通用せず、丁寧に一から教えなければいけない」と、昔との違いを語りました。

昭和のよさを守りながら、日本橋をよりよい地域に

最後に、次の100年に向けた思いを伺いました。

 

府川さんは「古いことを残し、守っていくのが難しい時代になってしまっている」と言いますが、それでも「地元を愛せ、商売を愛せ、女房を愛せ。この三惚れをしていけば必ず成功する」と力強く述べました。

 

野永さんは「包丁を捨ててはだめ、離してはだめ」という自身の店に伝わる家訓を紹介し、「店を守っていきたい」と意気込みました。

 

𠮷野さんも「酢飯の味と女房は変えるな」と、先代が言っていたという家訓を紹介しながら、今後について語りました。

 

「高度経済成長期やバブル期を経て、食の世界はどんどんグルメ志向になってきました。平成から令和という流れの中で、飲食業はやりにくい時代だと思うこともあります。それでもやはり、基本に立ち返り、原点回帰で、これまで培ってきたものを少しずつ発展させたい。先輩方が作り、築いてきた日本橋の文化やまちそのものを、もっと良くして次の世代へつないでいけるように頑張ります」(吉野さん)

 

それぞれの時代で、守り、伝え、次へ受け渡してきたものがあります。それは「まちを想う気持ち」であり、「人と人とのつながり」でしょう。100年をかけて積み重ねられた記憶を胸に、これからの100年へと語り継いでいけるようにと願っています。

 

取材・文/梶塚美帆(ミアキス)

写真/島村緑